歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

白山・横江荘遺跡 周辺から仏具が出土し郡庁跡か寺院跡か確定できず    

2008年07月11日 | Weblog
 9日白山市埋蔵文化財調査委員会において、これまで石川郡庁跡の可能性が大とみられていた横江荘遺跡について、市教委から「仏具の一種とみられる火舎(かしゃ)の破片3点が出土し、周辺でも仏具が見つかっていることから寺院跡の可能性もある」との報告があった。
遺構全体の規模は一般的な郡庁跡と同じ54m四方と推定されていたが、その後の調査で南北方向の一辺は50mだったことが判明。
 また、中心部に幅約6m、長さ約16m以上とみられる掘っ立て柱建物跡が新たに確認され、遺構が郡庁跡だった場合は正殿、寺院跡であった場合は本殿など宗教施設の可能性があるとする。
 このほか、南側に正門、北側に裏門とみられる跡が見つかっており、郡庁、寺院いずれのケースも考えられるという。
 今後、遺構を「回廊に区画された大型施設」と呼ぶことでになった。
[参考:北國新聞、前出]
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守山市 東大久手古墳 円筒埴輪が列を成して見つかる

2008年07月11日 | Weblog
 10日名古屋市教育委員会は、志段味古墳群(守山区)である東大久手古墳と勝手塚古墳で、円筒埴輪23本が、築造された古墳時代当時の並んだ状態で発見されたと発表した。
 円筒埴輪が元の位置のまま大半が残っている古墳は県内でも少なく、当時の古墳を知る貴重な事例という。
東大久手古墳から出土した円筒埴輪(直径20~25cm、高さ15~20cm)は、円墳部分を発掘した4か所で、それぞれ2~3本の円筒埴輪が間を空けずに並んでおり、計13本が見つかった。
 また今年3月に調査した勝手塚古墳でも、1か所から円筒埴輪10本が築造当時のまま、並んだ状態で見つかった。
 数か所しか発掘していないため全体の状況を確認していないが、円筒埴輪が円墳を一周した状態で残っている可能性が高いとする。
 26日午前11時から現地説明会が開催される。問い合わせは市見晴台考古資料館(052・823・3200)。
[参考:読売新聞]

志段味古墳群
 名古屋市の北東端・守山区上志段味に集中する前期~後期の大古墳群。

勝手塚古墳
 全長55m。 前方部長さ15m、幅21m、高さ2.3m。 後円部径40m、高さ7mの前方部が小さい帆立貝式前方後円墳。
 後円部は2段式築造と考えられている。6世紀頃の築造。
 後円部テラス付近には円筒埴輪が列をなし、土偶状の出土物も確認され、くびれ部からは須恵器片も出土している。

東大久手古墳
 全長37.5mの帆立貝式前方後円墳。前後部の境に列石、円筒埴輪が認められており、5世紀末の築造と考えられている。
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後三年合戦関連遺跡発掘調査 現地説明会の予定

2008年07月11日 | Weblog
後三年合戦関連遺跡発掘調査 現地説明会
 横手市教育委員会では、後三年合戦で名高い大鳥井柵跡の発掘調査を行っており、現地説明会を開催する。
今年4月より発掘調査を行っており、大鳥井柵跡は清原氏の拠点のひとつとされ、『陸奥話記』に登場する大鳥山太郎頼遠(おおとりやまたろうよりとう)の居館跡である可能性と指摘されるという。
 四面に庇(ひさし)の付いた格式の高い建物跡などが見つかったという。

平成20年7月12日(土)午後1時30分~3時大鳥井柵跡(横手市新坂町)
集合場所:大鳥公園駐車場
横手市教育委員会教育総務部文化財保護課 Tel:0182-24-3480 発掘調査現場事務所 Tel:0182-36-9177
[参考:横手市文化財保護課]

大鳥井柵は、平安時代・前九年の役の後に奥羽に勢力を拡大した清原氏一族の清原光頼、頼遠(大鳥山太郎)父子によって築かれたとされる。
後三年の役(1083-87)が起こると、清原家衡が籠もった金沢柵と共に源義家、清原清衡連合軍の攻撃を受け焼失したという。

陸奥話記より
(略)正任初隠出羽光頼子字大鳥山太郎頼遠許、後聞宗任帰降由、亦出来了、(略)同六年二月十六日、献貞経清首三級、(略)
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慶州 皇南洞古墳 新羅墓から仙薬「雲母」がまた出土

2008年07月10日 | Weblog
 国立慶州文化財研究所は9日、新羅時代古墳文化を代表する慶州 皇南洞古墳 황남동 고분で、5-6世紀に築造された新羅時代積石木槨墳から、道教で永遠不死の仙薬の代表薬として取り上げ論じられる雲母という鉱物質がまた出土したことを発表した。
 この頃の新羅社会では神仙を追求する道教が、強大であった再度立証することになった。
 積石木槨墳が集中分布する慶州・皇吾洞古墳群(史跡41号)のうちいわゆる「チョクセム地区」一帯を昨年から発掘調査した結果約1万6千500㎡の範囲から積石木槨墳55基、木槨墓9基、石槨墓6基、甕棺墓7基、関連祭祀遺跡3基など総80基余りに達する新羅時代遺跡を確認した。
そのほかに、各種土器や鉄器類をはじめとして、金銅製馬鞍裝などの馬具類、耳飾り、馬蹄形帶金具などの装身具類など1,200点余りに達する多様な遺物が出土した。
 このうちB2号積石木槨墳では、木の葉模様の薄い雲母片が被葬者の安置された周辺のいろいろなところで確認された。
新羅時代遺跡で、こういう雲母は皇南大塚、天馬塚と同じ中大型級積石木槨墳では、ほとんどもれなく出土しているが、最近になってそれが道教で重視する仙薬という薬品である事実が明らかになった。
これまでに現れたこの積石木槨墳の方は死体を安置する中心空間である積石部の規模が5m内外であり、土の墓もまた直径20m前後の小型が多いことが明らかになっている。
 構造は墓壙内部に木槨を設置して墓壙と木槨の間には砂利を一杯に満たした形態であった。
 国立慶州文化財研究所はこの発掘調査現場説明会を7月11日(金)11:00から開催する。
[参考:聯合ニュース]
 新羅古墳から雲母が出土する理由は、最近認識されてきたことらしい。
 日本では、以前から佛教大学文学部教授門田誠一氏が、雲母が神仙思想および道教と密接な関係だと指摘しているとする。
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益山・帝釈寺址 百済三重基壇木塔跡の構造の解明に

2008年07月10日 | Weblog
 文化財庁国立扶余文化財研究所は益山・帝釈寺址(史跡第405号)に対する2008年度発掘調査結果、精巧な版築で作った三重基壇木塔跡、派手な忍冬唐草文平瓦当で装飾された金堂跡など益山帝釈寺址の実体を解明できる考古学的資料を確認したと明らかにした。
 帝釈寺址は「観世音応験記」によれば、百済第30代武王(AD.600~641)が益山に遷都したが、貞観13年(639)雷雨によって仏堂と回廊などが燃えたというのが百済王室寺刹と推定される。
 今回の調査は2007年6月22日から寺域中心部(9,100㎡)の木塔跡-金堂跡-講堂跡に対する全面的な発掘調査を通じて、寺刹の規模および存在様相、築造方法ならびに益山王宮城と関連する王室寺刹としての性格を解明するためである。

①建立場所
 始大山から続く稜線の麓にあり、緩やかな丘陵に盛土して敷地を作った後、真北から東に5°傾いた南北中心軸上に木塔-金堂-講堂を配置する一塔一金堂の伽藍配置をする典型的な百済王室寺刹。
②木塔
 独特の三重基壇に地上式心礎構造の木塔。
③木塔基壇
 厚さ約3mの精巧な版築で基礎を固めた3重基壇木塔の構造である。木塔跡は心礎石中心から各々5.6m、10.6m離れた地点で基壇が位置して、一辺の長さが21.2mの外側基壇が二重基壇になっていて結果的に3重基壇で構成される。
木塔基壇の基礎は、まず地面を掘坑して内部を約70cm厚さの褐色砂質粘土を中心にで版築し、地上には下から上に約250cm厚さで精巧に版築して、細部的には3単位に区分される。すなわち下から「黄色・赤色真砂土層(140cm)-褐色粘土層(54cm)-赤褐色砂質粘土層(58cm)」に区分される。
④百済平瓦当
 金堂跡の基壇外部で、百済蓮華文軒丸瓦および瓦片と共に派手で優雅な忍冬唐草文平瓦当が多量出土したが、共伴遺物および層上関係を通じてみた時、百済平瓦当と判断される。
 平瓦当は中央に図式化された鬼面文が施文されていて、左右両面に向かって、忍冬唐草文が流麗にのびている。 今まで百済地域では軍守里寺址の指頭文平瓦当、扶余官北里百済遺跡・扶蘇山城などの有段式平瓦当など原初的平瓦当程度だけ知られていて、とても精巧で洗練された帝釈寺址出土平瓦当を百済時代と見るのに躊躇する傾向があった
 精巧な百済平瓦当が金堂跡だけで出土する理由と意義について深い研究が必要。
⑤敷地造成と盛土
 寺刹の中心建物を造営するための広範囲な敷地造成を通じて、木塔をはじめとする中心建物の基壇基礎を丈夫に固めるための精巧な地固めの痕跡が確認された。中心建物が南北で緩やかに傾斜している地形条件下に立地していて金堂-木塔にかけて、大規模盛土敷地層が確認された。既に地固め痕跡は、益山王宮里5重の石塔下部建物の築基部と藤原宮の大極殿院南門などでも確認されたが、帝釈寺址のように精巧で広範囲に確認された事例はきわめて珍しい。
⑥廃棄場
 帝釈寺址北東側で廃棄場が確認されて、二寺が火災で廃棄されたし、層上で「帝釈寺」銘文瓦が出土して「観世音応験記」の資料的信頼度が高まった。 これで百済武王の益山遷都、益山王宮城と帝釈寺址との関係や、王宮里5重の石塔舎利荘厳具と帝釈寺址との関連性を解明する契機が現れた。
⑦寺刹の造成および運営時期
 木塔跡と金堂跡では百済蓮華文軒丸瓦、平瓦当をはじめとする百済時代遺物が出土した反面、講堂跡では百済~高麗時代遺物が出土した。 そして木塔跡と金堂跡を連結する踏道を破壊して造成した窯の焼き跡が確認され、寺刹の廃棄時期を解明することが可能になった
現在までの調査では、窯の焼き跡の残存状態が良くなくて、今後補完調査とともに自然科学的分析を通じて、窯の焼き跡の造成時期に対し調べる必要がある。合わせて「丁易」・「丁易寺」銘の銘文瓦、箱型全(前),壁体片、砥石、鴟尾片、青銅製品片など百済~高麗時代にかけた多様な遺物が出土した。

 今後、帝釈寺址に対する第2次発掘調査では中門跡と回廊に対する確認調査が計画されている。 合わせて独特の形態の木塔構造を明らかにするために中国,日本の木塔に対する比較研究を進展する予定である。 帝釈寺址の全貌を明らかにするためには近隣の廃棄場に対する本格的な調査および研究も行わなければならない。
※発掘調査指導委員会議は7.11(金)11:00,一般人を対象にした現場説明会は7.12(土)に実施する予定だ。
[参考:聯合ニュース]

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将棋の矢内女王・女流名人が行田市観光大使に

2008年07月10日 | Weblog
行田市は7日、古代ハスや国指定史跡、埼玉古墳群など市の名物や歴史を紹介し、市のイメージアップを図ろうと、将棋の矢内理絵子女王・女流名人を市観光大使に委嘱。
矢内さんの出身は行田市で一番のお奨めは埼玉古墳群と話している。
[日本将棋連盟、産経新聞]

写真は行田・古代ハス
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白山市 東大寺領横江荘遺跡 近くに正殿の柱列跡か 『石川郡庁』確定的に

2008年07月09日 | Weblog
 石川県白山市横江町の「東大寺領横江荘遺跡」付近で、九世紀前半の石川郡庁の正殿跡とみられる柱列跡が発見されたことが分かった。
 柱列跡が見つかったのは、推定約54m四方の回廊型遺構の内部。回廊内のやや北寄りで、他県で出土した一般的な正殿跡と、ほぼ同じ位置にあるという。
 4、5月の調査で、正殿を囲む回廊の北西部分とみられる大型回廊型遺構に続く出土で、調査地が石川郡庁跡であることが確定的になった。荘園と郡庁跡が一体で見つかるのは全国で初めて。中央権力と宗教的権威が一体になって手取川扇状地の開発が行われたことが想定される。郡庁跡は、北陸四県では初の出土。
 818年に皇妃からの寄進を受けて東大寺領横江荘が成立した。その5年後823年に加賀国が成立し、同年に石川郡が分置された。郡庁はこの際、建てられたとみられる。
 同市教委は8日、文化庁に調査結果を報告し、今後の調査計画や保存、活用方法などを関係機関と協議していく。
[参考:中日新聞]
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薩摩川内市 竪穴式石室のある畿内型古墳を発見 5世紀築造?

2008年07月08日 | Weblog
 7日薩摩川内市教育委員会は、同市天辰町のもともと久木原神社があった丘陵で竪穴式石室のある畿内型古墳を発見したと発表した。
 竪穴式石室を持つ古墳は、鹿児島県内で6カ所目。川内川以南の薩摩半島で、石室を持つ古墳の発見は珍しい。
 四方に平らな石を積んで壁を築き、その上に天井石を乗せ閉鎖する竪穴式石室で、大きさは東西2.4m、南北1.3m、高さ約1.5m。墳丘は東西23m、南北15m、高さ約2.3mで、形態は不明。
 石室内部の石積みの一部に、赤色顔料のべんがらとみられる塗料が残っている。
 古墳時代に一帯を治めた豪族の墓とみられ、同市湊町の船間島古墳とつくりが似ていることから、同時期の5世紀ごろ造られた可能性が高い。近畿地方の勢力が左岸地域にも及んでいたことを示す貴重な資料になる可能性が高いという。
[参考:南日本新聞、西日本新聞]
船間島古墳
 川内川河口、船間島の河口大橋のたもとの標高20mほどの丘の頂上にある、竪穴式石室をもつ5世紀頃の円墳。
 石室の奥行きは1.2m、幅1m、深さ0.8mで,安山岩の板石で積み上げて造られており、壁面には朱が塗られている。
 畿内型古墳はこの方面から内陸部への進出は見られないと考えられていたが、今回出土した古墳は、船間島古墳のそばを流れる川内川を12km上り、さらに支流の三堂川を200m上った地点にあり、その説を変えるものとなる。
 また、川内川より南端の畿内型古墳は、平成10年に見つかった、川内川よりはるか60km以上離れたところにある弥次ケ湯古墳(指宿市十二町、円墳22m、6~7世紀)1基のみであったが、今回の発見により2基目となる。
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「高松塚古墳」の発掘再開

2008年07月08日 | Weblog
7日高松塚古墳(明日香村平田)で墳丘南側の発掘調査が本格的に始まった。
昭和47年の壁画発見以来、壁画保存が最優先されたため、石室以外ほとんど発掘されなかった。
古墳の正確な形や規模を明らかにする予定。
文化庁は、発掘成果をもとに今年度内に墳丘整備を行うことにしている。
今回は、16年度の発掘で検出された墳丘北東部を円形にめぐる周溝について、南側へどのように延びるかなどを調べるため、墳丘南側の斜面165㎡で実施される。
被葬者、詳細な築造時期が明らかになるような成果を期待する。
[参考:産経新聞]
写真:平成11年10月撮影
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養父市 夕垣8号墳 大刀の鍔に銀の象眼

2008年07月07日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町)は四日、養父市八鹿町の夕垣8号墳から1981年に出土した大刀の鍔(つば)に、銀象眼が施されていたことが判明したと発表した。銀象嵌は鉄製の鐔の側面に施されており、2本の直線が環状に銀で刻まれる中に0・5cm間隔で「C」字形の渦巻文が36個確認された。
 県教委が81年に発掘調査し、横穴式石室から、鉄製の直刀(長さ約1m)と鐔(長径9・2cm、短径7・8cm、厚さ0・9cmの卵形)が離れた位置で出土した。考古博で保存処理に向けエックス線撮影中に発見した。
 デザインから七世紀前半に作られたと推定される。
県内で出土した象眼のある刀装具は13例で、うち銀象眼は11例目。
同館は、8日-8月10日速報展示コーナーで展示する。
[参考:神戸新聞、毎日新聞]

夕垣8号墳: 円墳(短径11m、長径13m)、全長3.3mの横穴石室、六世紀後半
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大津市園城寺町 三尾神社 本殿は室町初期建立を確認

2008年07月06日 | Weblog
 園城寺(三井寺)の寺内社の一つ三尾神社(伊東忠美宮司)は、本殿の建立年代が室町時代初期の応永33年(1426)と判明したと発表した。同神社に残された文書に本殿建立の年代は記されていたが、現存の建物と同一か不明だったため、山岸常人・京都大大学院准教授(日本建築史)らが調査。本堂の構造・工法が室町初期の神社建築の特徴と一致した。
 同神社によると、長等山の神として信仰され、貞和3年(1347)に足利尊氏の命で復興し、慶長14年(1609)に大修理があった。政府の神仏分離政策で明治9年(1876)、寺の敷地外に移され、その際の記録に、応永33年に本殿が建立されたとあり、本殿にも「応永三十二年」と墨書された板材がある。神社の修理記録には、応永10年(1403)に本殿の資材や職人を集めた記述があった。
 山岸准教授は県教委の協力を受けて調査。その結果、
・屋根妻の材木の寸法比や組み合わせ方が、14世紀の同寺の寺内社「新羅善神堂」とほぼ同じで、室町時代の建築様式の特徴がある。
・このうち本殿では、中世の手斧・釿(ちょうな)という工具で表面を削った際にできる波状の跡が材木から見つかり、かんなの発達した近世以降の物ではないいことがわかった。
・建物側面にある木材を合掌に組んだ叉首(さす)と呼ばれる部材の幅が広い。
など、南北朝から室町期の特徴を残していたことが判明し、応永の本殿だと結論付けた。
 記者会見した山岸准教授は「県内の鎌倉から室町初期の神社建築はいずれも国宝・重文に指定されており、それに匹敵する歴史的価値がある」と話した。伊東忠美宮司(59)は「建物そのものから、歴史が裏付けられた」と喜ぶ。
[参考:毎日新聞、朝日新聞、京都新聞]
三尾神社
 祭神 伊弉諾尊
 太古の頃、伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが三つの尾を曳くように見えたところから「三尾」と名づけられました。 [三井寺ホームページより]
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八幡市・女郎花遺跡 現地説明会

2008年07月06日 | Weblog
昨日5日午後2時から市教委による現地説明会が開催された。60人が参加。
かつて豪族の支配地域だった男山東麓(とうろく)の南端で、新たな柱穴出土がしたことで、石清水八幡宮遷座前の中心地をうかがい知れると話す。
[参考:京都新聞、前出]

<備考>
周辺遺跡の年代など考察を、添付地図を参照に簡単に記してみます。
①女郎花遺跡H20発掘調査地(八幡女郎花) 今回
②女郎花遺跡H17発掘調査地(八幡大芝) 古墳時代後期~平安時代後期までの集落、その後、畑として利用。
③松花堂美術館 建設時に古墳時代の集落跡を確認。
④東車塚古墳 4世紀の前方後円墳。全長94m、後円部径53m、前方部幅30m。前方部が削平され松花堂庭園の築山になっており古墳の風情は残っていない。
⑤西車塚古墳 4世紀の前方後円墳。全長115m、後円部径70m、前方部幅32m。後円部が著しく大きい特徴。丘陵先端部を切断して築造。周辺には盾形の周濠跡が認められる。
⑥志水廃寺 奈良時代の8世紀中心とする時期の古代寺院。1977年の発掘調査で瓦積み基壇が1基発見されている。
⑦志水瓦窯跡 志水廃寺で使用した瓦を製作。
⑧月夜田遺跡 志水廃寺の遺物散布地。
⑨推定古山陽道 地割りと古代文献資料をもとに提示する足利健亮氏の説。和銅4年以降に整備され奈良時代を通じて使用されたと推定される。平安時代前期(9世紀)のうちに埋没する。
⑩石清水八幡宮 貞観元年(859)僧行教が4月朝廷に、男山に宇佐宮勧請を奏請し清和天皇が命じ造営させた。男山の地は平安京にとって西南裏鬼門にあたる地でもあった。
参考文献:
平成17年度 女郎花遺跡発掘調査(八幡大芝53-1他)現地説明会資料(八幡市教委)
平成18年度 志水廃寺(第4次)・月夜田遺跡発掘調査 現地説明会資料(八幡市教委)

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深谷市・幡羅遺跡 「竈(かまど)神」を描いた人面土製品?を発見

2008年07月05日 | Weblog
 写真は「発掘された日本列島2010」(江戸東京博物館)にて撮影

 深谷市教委は、古代の郡役所跡「幡羅遺跡」(7世紀後半~10世紀前半)で発掘された遺物の中から、かまどの支脚とみられる人面が描かれた土製品が発見されたことを発表した。
 2006年度の第19次調査で大型竪穴建物跡から、高さ7cm、直径6-7cmの円柱の頭の部分とみられる土製の塊が発掘された。水洗いしたところ、焼成前にヘラで刻み付けられた顔のような模様が現れた。全体に漆喰のような塗料で白く塗られている。
 形状や、出土場所がかまどのすぐそばであるため、煮炊きの時に土器を支えるかまどの支脚の一部である可能性が高く、顔は火の神様であり家の守護神として信仰されていた竈神を描いたものとみられるという。
同様の支脚が見つかったのは、千葉県の飯積原山遺跡の出土品(9世紀前半)に次いで全国2例目。
 「竃神」は、家の火の神や家の守護神として祭られ、古事記にも記されている。この地域に竃神を祀る信仰があったことを示す貴重な資料とする。
 この土製品は19日~9月28日、行田市の県立さきたま史跡(行田市埼玉)の博物館で開かれる最新出土品展「地中からのメッセージ」に出品される。 

古事記 上つ巻 大国主命 8 大年神の神裔 より抜粋
大年神、娶天知迦流美豆比賣生子。奧津日子神。次奧津比賣命。亦名大戸比賣神。此者諸人以拜竃神者也。
(訳)大年神(オホトシ)、天知迦流美豆比賣(アメチカルミズヒメ)を娶って、生んだ子は、奧津日子神(オキツヒコ)。次に奧津比賣命(オキツヒメ)。亦の名は大戸比賣神(オオベヒメ)。此は、諸人のもち拜(イツ)く竃神(カマノカミ)ぞ。

[参考:東京新聞、毎日新聞]
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京都府与謝野町 滝谷古墳群 1号墳墓から銅鋺出土

2008年07月05日 | Weblog
 与謝野町教委は与謝野町明石(あけし)の滝谷古墳群の4基を調査中、1号墳の横穴式石室から近畿で8例目の銅製の鋺(口径約8cm、高さ約4cm)が出土したと発表した。銅鋺は全国で約80例出土しているが、大半は関東地方からという。
 1号墳は円形に近い長さ16m。横穴式石室は「中高式天井」構造、全長8.2mで丹後地方でも有数の大きさという。
 「中高式天井」は石室奥の天井を低く、中央部を高くなるようにしているのが特徴で、鳥取県東部に多く見られるが、岡山、兵庫、滋賀県などでも見られる形態。
現地説明会は6日午後2時から行われる。
[参考:京都新聞]
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京都府八幡市 女郎花遺跡 奈良-平安期の建物遺構出土 地元豪族の居館か

2008年07月04日 | Weblog
 市教委は3日、女郎花遺跡から、奈良時代から平安時代初頭にかけて長期間にわたり地域を治めていた豪族の居館の一部とみられる建物の遺構が見つかったと発表した。
 市内で豪族の遺構の発見は初めてで、市内の石清水八幡宮成立(859年)以前の中心地をうかがい知ることができるとしている。
遺跡東端の157㎡を発掘し、3棟の大型掘っ立て柱建物の柱穴(直径0.7~1m)がほぼ同じ場所から見つかった。
 最も古い遺構は、南北約5m、東西約7・5m以上(面積37.5㎡以上)になる。
 2番目に古い建物は南北約6.3m、東西約4.2m(面積26.5㎡)。
 最後に建てられたとみられる遺構は南北約6.3m、東西約4.6m(面積約29㎡)。
 居館が建て直されながら奈良時代前半から平安時代初頭まで約100年間続いたことを示している。
 柱穴の大きさが古代寺院に匹敵し、遺構の南30mに倉庫跡、南250m地点に奈良時代に権威の象徴として盛んに建立された志水廃寺があることなどから、当地 周辺を治めた豪族ではないかとみている。
 これ以後、居館は畑になり、豪族は没落したと推測する。
 八幡宮の成立を期に集落域が男山東麓の南端から石清水八幡宮麓の北側に移ったとみられる。
 5日午後2時から現地説明会を開く。雨天決行。問い合わせは八幡市立ふるさと学習館TEL075(972)2580。
[参考:京都新聞]
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