嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、江戸湾入口浦賀沖合に4隻の蒸気船(黒船)が現れました。昔から学校の歴史の時間で教えられていたこと。…このあたりのことは教科書に載っている。
でも、僕にはずっと気になっていたことがありました。このころの人たちにとって、外国語とはオランダ語じゃないのか??どうやってアメリカの艦隊の人たちと話をつけたんだろう。このあたりの事情が書いてある本を最近読みました。おもしろいですよ。
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その本によると、この地を守っていたのは浦賀奉行所。この役所は江戸湾を出入りする船舶の検問が業務。奉行所には奉行2名、配下の組頭2名、与力20名、同心がおおよそ100名、そして通詞(つうじ:通訳官)が数名配置されていたそうです。江戸の南北町奉行所と同じ勤務体系だと、月番制かな。町奉行所は1ヶ月ごとに門を開け、訴えを受け、捜査をしたり、それ以外の行政事務もしていた。非番の月は門を閉め、取り調べをしたり、資料整理などをしていたようです。浦賀奉行所もこんな感じかな。一カ所だから、門は閉めてはいないだろうけど。
さて、黒船の来航に最初に対応することになったのは、この奉行所の役人や通詞。本来通関業務に近い役所が外交業務をやることになった。いまの言い方だと、本来財務省所管の仕事をする役所(通関業務)が外務省所管(条約交渉)をすることになったわけ。大変だったろうな。
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当時日本人で英語がもっともできたのは長崎のオランダ通詞森山栄之助(もりやま・えいのすけ)。この人は北海道に漂着したアメリカ人の取り調べに同行、長崎まで護送されたそのアメリカ人から英語を学んだらしい。どうやって最初コミュニケーションを取ったか謎だ。でも、その森山は浦賀にはいなかった。彼は長崎に来航したロシア船の対応で長崎にいた。
実際の通詞(主席通詞)となったのは堀達之助(ほり・たつのすけ)という浦賀奉行所オランダ通詞だったそうです。堀は長崎生まれ。オランダ通詞の家に生まれ、22歳から浦賀詰めになった。当時武家に生まれたものは5歳くらいから四書五経を素読、漢文の教養はついていた。たぶん堀も同じでしょう。しかし英語に関しては十分な教育環境にはなかった。森山とは違い自学自習であったことは間違いない。…うそみたい。
中浜万次郎(ジョン万次郎)も当時日本にいたが、幕府は万次郎を起用しなかった。アメリカ生活が長かったので、ある意味当時の幕府高官から見ると日本人(の思考の持ち主)であることにクエスチョンマークがついていたためだという。
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ペリー艦隊は野次馬や海上警備の船に囲まれていた。その中に浦賀奉行所与力中島三郎助、同・通詞堀達之助を乗せた船が近づいていった。長崎に向かわせることを目的としたらしい。
堀の乗った船には、なんとフランス語で「立ち去れ」と書かれた旗が掲げられていたらしい。奉行所の中でフランス語わかる人がいたと言うこと。ちょっと驚きです。なかなかコミュニケーションがとれないので、堀はオランダ語で、船籍と来航目的を尋ねたが通じなかった。相手はアメリカ語を話すらしい。そこで堀は叫んだ。そこから交渉が始まった。
このとき彼が叫んだ内容が3通り記録されている。
I can speak Dutch.
I talk Dutch.
Is there anyone on board who speaks Dutch?(「オランダ語をわかる人は乗っていないか」と、英語で言った。)
1番目はペリー提督と同行した伝記記録要員が公式報告書に記したもの。2番目はペリー提督の主席通訳官が日記に書いたもの。3番目は日本側の記録(大日本古文書・幕末外国関係文書之一)だそうです。記録というのは、録音でもない限り微妙にずれるものなのかもしれません。
I cannot speak English.ではなかったのか。
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さらに詳しいことはこちらをどうぞ。(最近読んだ本をご覧下さい。)
書名:サムライと英語・角川oneテーマ21(B-57)
著者:明石康、NHK「英語でしゃべらナイト」取材班
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著者はあの明石康さんです。