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日本が欧米列強の植民地にならなかったのは欧州から距離が離れていたことが幸いしているという人も多いが、それ以上に為政者である侍階級の教養とモラルの高さと愛国心、市井の高い民度だったと言えるのかもしれない。
で、さらに一つ重要な要素がある。
それは「当時としての先進的な経済体制」だったんじゃないかと私は勝手に考えている。

江戸時代の日本は世界でも突出した資本主義の国であった。
こんなことを言うと、
「江戸時代は封建主義でしょ」
と突っ込まれるかもしれない。
確かに身分制度や家制度。
現在と比べると自由は少ないが、経済は紛れもない資本主義。
この経済の資本主義に引きづられ、封建制度はかなりのフレキシビリティをもって運営されており、幕府とて経済抜きに政を取り仕切ることなどできない社会なのであった。
幕府に限らず先進的な諸藩では有用な人材を身分関係なく取り込んでいたことは学校ではあまり教えない事実でもある。
それが証拠に新政府になっても経済の要の大蔵省は旧幕府の勘定方がそのまま移行して業務を継続。
現在の財務省に至っている。

この経済がどのように資本主義であったかを知るにピッタリなのが大阪の米市場を見つめること。

大阪は昭和の初めまで日本経済の中心地だった。
そのもとになったのが江戸時代前半に始まった堂島米市場。
現在の地下鉄淀屋橋駅近く。
日銀大阪支店の直ぐ側にあった米取引場での取引システムが日本全体を資本主義というか自由主義に否が応でも導いた。

当時は米が重要な役回りをしていた。
武士の給与は米。
公共工事も米換算。
諸藩の予算は当然米。
だから米の相場というのもは非常に重要で大中小に関わらず諸藩はその値動きに敏感になっていたというわけだ。

大阪の中之島周辺は現在は諸官庁や文化施設、大手企業の本社が建ち並ぶエリアだが、このあたりを中心に江戸時代は諸藩の米蔵が並んでいた。
各藩は収穫して納税された米をここへ持ち込み商社を通じ全国に売りさばいていたのだ。
でも実際のところ米の現物を取引するのは容易ではない。
重い。
扱いにくい。
場所を取る。
季節性がある。
などなどなど。
そこで登場したのが米切手。
現在の証券にあたるもので各藩はこれをもって取引を実施していた。

で証券になると扱いやすいことに加えて、実は現物がないけど証券を発行、金を調達なんてのも出てきたりした。
さらに見込みで取引することも可能になるので予め相場を立てて取引するというような先物も現れ活況を呈してくる。
これらが行き過ぎると経済が混乱するので幕府としても黙って見ているわけにいかないので経済介入する。
ところが大阪の商人たちは巨額の利益を上げながら市場を牛耳っているので権力で圧してくると経済でやり返すということが繰り返されたのだという。

まったくもって面白い。
この先物取引は現在では世界最初の先物取引として国際的に認識されているくらいなので、いかに当時の経済システムが進んでいたかが見て取れるというものだ。

こういうことを具体的に知りたいな、と長年思っていたところに見つけたのが高槻泰郎著「大坂堂島市場」。
とってもわかりやすい文書で書かれたこの分野を知ることのできる良書なのであった。
それにしても大同生命が米相場を采配していた大店がもともとだったなんて知らなかった。


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