一月ほど前。
奈良・唐招提寺の「うちわ蒔き」という行事を見に行く機会があり、多分生まれて初めて唐招提寺を訪れた。
多分なのは行ったことがあるような気もするし、無いような気もするからだ。
記憶に薄いけど、ここの近くは良く通るのでそんな記憶になっているのかもしれない。
とにかく東大寺や興福寺、法隆寺は絶対に行ったことがあるものの唐招提寺は初めてという「灯台もと暗し」そのまんまの参拝なのであった。
唐招提寺は唐からの渡来僧だった鑑真によって創建されたお寺であることは日本人なら誰でも知っていることであろう。
お寺の名前は読んで字のごとく、唐からお招きしてしっかりと礎を築いていただいたお寺という意味だ。
鑑真という偉いお坊さまが生命をかけて東シナ海を渡って日本へやってきた。当時の思想的発展途上国であった日本の民にお釈迦様の教えを伝授しにやって来たのだ。
私はこの日、唐招提寺の講堂で執り行われた法要へ参列していた。
晩春の日差しのなか、大きな講堂の中を吹き抜ける爽やかな風とお坊さまの読経が響く。
厳かだが緊張感は強くなく落ち着いた雰囲気だ。
「ええ建物やな〜」
私はその雰囲気に心が和んだ。
「いつ頃の建物かな。江戸時代かな」
私はぼんやりと講堂の中を見渡した。
知らないということは恐ろしいことで、唐招提寺の講堂は本堂と並んで天平時代を代表する建物なのであった。
だからして築1200年。
国宝なのはもちろん世界遺産なのであった。
後日読んだ本によるとこの建物は元々は平城京を構成していた建物の一つで要らなくなったのを寺が貰い受けてここに移築。
そのまま現在に至っているのだという。
というのも唐招提寺は東大寺何かと違って今風にいうと完全に官の力に頼らず民間の力だけで創建したそうで、予算を節約するためにすでにあった建物を利用したのだという。
建物の歴史にも驚くが千年以上前にも現代社会と同じような仕組みでしかも建物の再利用があったというのが驚きだ。
奈良のお寺や遺構を訪れると、その近代的生活臭に驚くことが少なくない。
歴史があるということと表裏一体のその人間社会の営みは現代と比較すればするほど面白くなるのだ。
鑑真さんに思いを馳せていると、当然のことながらお一人で海を渡ってきたのではないということに気がついた。
鑑真和上は多くの弟子たちを引き連れて日本へやってきたのだ。
その弟子たちはもちろん優秀な人達ばかりで唐にとどまっていても僧としての将来を約束されていた人たちに違いない。
この鑑真和上の日本への旅は井上靖著「天平の甍」に詳しい。
実は今回この唐招提寺にお参りして「天平の甍」を無性に読みたくなり書店で買い求めた。
この小説を原作にした映画「天平の甍」は学生時代の学科長だった依田義賢先生が脚本を担当されたこともあり映画は見たことがあったのだが原作を読んだことはなかったのだ。
今回唐招提寺へお参りすることがなかったらまだ読んでいなかったかもしれない。
さらに弟子の僧たちだけではなく、技術者や商人なども一緒に遣唐使船に同乗して日本へやってきたわけで彼らが日本に与えた影響も鑑真和上のそれにひけをとらない大きなものであっただろう。
私が興味を特に抱いたのは鑑真和上の弟子に如宝さんという若い僧侶。
来日時23歳。
孤児であったのを子供の時に鑑真和上に救われて弟子になり、その後ずっと師に付き従っていてそのまま日本にまでやってきたのだという。
来日当初は師と一緒に東大寺にいたそうだが、その後栃木県下野市にあった下野薬師寺で住まいしていたが、鑑真和上の死去後奈良に戻り唐招提寺を完成に導いた偉いお坊さまになったという人なのだ。
記録によると正式にわかっている日本に渡来した最初のウズベキスタン人だそうで、1000年以上も前にこのような優秀な渡来人のおかげで日本の重要な教義の場が整備されたと思うと感慨深いものがあった。
そこで関連して浮かんだのは外国人労働者の受け入れだ。
この4月から多くの外国人を正式に受け入れるということがなされているが、果たして鑑真和上や如宝のような人たちが来てくれるのか。
唐招提寺参拝でそんなことを思うひとときなのであった。