夜の涯、晨は
第67話 陽照act.5-side story「陽はまた昇る」
架け慣れないコールする番号に、なんとなく緊張してしまう。
壁凭れかかり見あげる窓は月が無い、ただ雲の形が薄墨色に空へ流れゆく。
あんなふうに見えるのは星明りではなく街のネオンだろう、それが寂しい想いに電話が繋がった。
「こんばんは、宮田くん?」
「吉村先生、お久しぶりです。いつもメールばかりですみません、」
嬉しくて笑いかけた電話越し、穏やかな空気が伝わらす。
いつもどおり寛がせてくれる空気は優しい、その安堵の向こう吉村は笑ってくれた。
「元気そうだけど、少し考えこんでいる感じですね?後藤さんと湯原くんのことかな、」
ほら、いつものようお見通しだ?
何も言わなくても解ってくれる、その理解が嬉しくて英二は笑った。
「はい、先生に隠し事は難しいですね?」
「ははっ、そんなに全て解かってはいませんよ、私も、」
穏やかに深い声が可笑しそうに笑ってくれる。
この声に肩の力ほどかれてゆく、幾らか楽になった心へ吉村医師は話してくれた。
「後藤さんは明後日、予定通りに検査入院します。今日までの経過は悪くないので、検査の結果が良好ならそのまま手術します、」
後藤が手術する。
この現実に鼓動ずしんと肚へ響く。
きっと大丈夫、そう信じる願いに呼吸ひとつ英二は微笑んだ。
「後藤さん、手術されることに決めたんですね?」
「はい、私の腕に懸けて下さるそうです、雅人が助手を務めてくれます、」
穏やかな声の告げる名前に、もう一人の患者が想い出される。
もう帰っているだろう俤を想いながら英二は電話向うへ頭を下げた。
「吉村先生、どうか後藤さんのことお願い致します。雅人先生にも、」
こんなふう電話越しに頭を下げた事なんて、無かった。
けれど自然と頭が下がってしまう、こんな今の自分がなんだか誇らしくて温かい。
誰かのために礼を尽くそうと出来る、そう想える相手がいてくれる幸せに微笑んだ耳元に篤実な声が笑ってくれた。
「宮田くん、頭を上げて下さい?私の方こそ礼を言いたいんだから、」
頭を下げたことを解かってしまう、そんな医師にまた信頼が篤くなる。
こういう男と出会えた幸運に微笑んで頭上げて、窓の北西を見あげながら尋ねた。
「先生、どうして俺に礼を言ってくれるんですか?」
「後藤さんが手術を決心してくれたからだよ、」
穏やかな声が笑ってくれる言葉に、夏富士の黄昏が映りこむ。
最高峰で見つめた煙草の蒼い煙と黄金の雲、あのとき最高の山ヤの警察官は何を想ったろう?
そんな思案に微笑んだ電話の向こう、山と生きている医師は笑いかけてくれた。
「宮田くんと夏富士に登った所為で欲が出た、だから手術してクライミングを続けられる可能性に懸けたくなった、そう仰ってね。
もっと自分の脚で宮田くんと登ってみたくなったそうです、まだ一ノ倉沢も滝谷も一緒に登っていないから未練が死にきれんぞってね、」
話してくれる言葉に懐かしい口調と笑顔が浮んで、瞳の奥に込みあげる。
そんなふうに自分を想ってくれる人が居る、その温もりに幸せなまま笑った。
「俺も後藤さんと一ノ倉沢とか登りたいです、アルパインのテクニックをもっと教えてほしいって欲が俺にもありますから、」
「そうだね、後藤さんの岩登りは最高テクニックだから教わらないと勿体ないよ?雅樹も色々と教わっていたよ、越沢や白妙橋でね、」
楽しげなトーンで言ってくれる言葉は懐旧にも温かい。
その言葉に籠る吉村の祈り二つ見つめながら訊いてみた。
「先生、周太のことを雅人先生は何か仰っていましたか?」
「いいえ、守秘義務を厳守したままです、」
明解な答え、けれど微かな溜息の気配が漂う。
吉村医師も心配してくれている、その心遣いに英二は微笑んだ。
「周太に気づかれないように診てるんですけど、この一週間は朝晩とも熱や目の充血はありません。夜も呼吸は正常でよく眠れています。
雅人先生に頂いた薬も几帳面に飲んでいるようです、薬の包みとかはゴミ箱に捨てていませんが、よくテルモスに水を汲んでいるので、」
朝と夜と、さり気なく額を重ねて熱を診てきた。
会話する時は瞳の充血や瞳孔の変化に注意して、眠りの深さと水汲む頻度に気をつける。
そんなふう見守ることしか今は出来ない、それでも精一杯に護りたい願いに医師は笑ってくれた。
「包みも捨てないで水もペットボトルを買わないなんて、湯原くんらしい慎重さですね。それを確認している宮田くんも流石ですけど、」
「周太らしいですよね、だから俺も気づかれないように慎重にチェックしています、」
あのひとらしい、そう笑いあえる幸せが温かい。
病状の心配をするなど哀しい、けれど生きていてくれるなら笑って話せる。
これがいつか全快したと笑いたい、そう願う向こう側で篤実な医師は微笑んだ。
「宮田くんに医学を教えて良かった、君のおかげで私の友人を2人も援けてもらっています、ありがとう、」
友人を二人、その言葉に感謝が瞳の奥で温まる。
この言葉を周太に伝えたら喜ぶだろう、けれど出来ない切なさ飲みこんで英二は笑った。
「こちらこそです、先生。先生が教えてくれたから俺は大切にしたい人を少しでも援けられます、本当にありがとうございます、」
「君は医学に向いてるって私は思うよ、この間の学生さんも宮田くんの対応が良かったから回復が早くてね。だから春が楽しみです、」
穏やかな声が言ってくれる言葉に、春からの責務が心現れる。
その重みに少しの緊張と誇らしさで英二は綺麗に笑った。
「はい、必ず救命救急士になります。これから願書は出すところですが、」
「忙しくなるだろうけど、体は充分に気をつけて下さいね?君なら体力は充分だろうけど、」
穏やかな声が配慮と笑ってくれる、そこにある想いが切ないまま優しい。
いまも医師の心に生きている俤を想いながら約束と笑いかけた。
「先生、今度そちらに第2小隊の訓練で伺うんですが、来月は個人的に帰る予定でいます、ゲレンデの訓練と剣道会の稽古も出たいので、」
久しぶりに会える、そう想っている自分の懐かしさが温かい。
こんなふうに想える場所と相手がいる歓びに尊敬する人は笑ってくれた。
「剣道会の稽古も兼ねるなら一泊するでしょう?ぜひ家に泊まって下さい、訓練は日帰りですか?」
「ありがとうございます、訓練はビバークもするので山中一泊です、」
予定を話しながら温かな心遣いが幸せになる。
この医師が受けとめてくれるから自分は今日まで頑張れた、だから今もここに居られる。
こうした感謝の相手もう一人を想いながら英二はもう一度頭を下げた。
「先生、後藤さんのこと、どうかよろしくお願いします、」
「はい、」
短い返事、けれど明るい希望が温かい。
その温もりに安堵と頭を上げた想いへと、穏やかな声は言ってくれた。
「大丈夫、後藤さんは肺気腫にやられるようなヤワな人じゃないから。湯原くんも強い人だ、心が強い人は大丈夫、」
大丈夫、そう言ってくれる声に瞳から熱ひとつ雫になる。
ゆるやかに頬伝う濡れた温もりに英二は綺麗に笑った。
「はい、二人とも大丈夫ですね、」
「そうだよ、大丈夫だ、」
大丈夫、そう互いに言い交す想いが祈りに綯われる。
大切なひとの無事を共に祈ってくれる人が居る、その優しい信頼に笑って英二は電話を切った。
ポケットに携帯電話を入れながら見あげる窓は月も星も無い、さっきと同じに雲だけが薄墨ひくよう駈けてゆく。
それでも1つ、瞬く光を見つけて英二はゆっくりカーテン引きながら夜空に笑った。
(to be continued)
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