That Thou lov’st makind well, yet wilt not choose me, 選択の硲に
第84話 整音 act.27-side story「陽はまた昇る」
消えてゆくエンジン音、それから静寂。
葉擦れの音、頬ふれる冷気、さらさら水が匂いだす。
池は湧水なのだろうか、そんな苔の庭めぐらす廊下を月昇る。
「きれいだ、」
声こぼれて懐かしくなる、あの月あの場所ならもっと綺麗だ。
―奥多摩も月かな、
月がきれいだ、
そう心から知ったのは奥多摩の日々。
毎日を山に懸けて駈けた、あの時間いつ戻れるだろうか?
「帰りたいな、」
ひとりごと微笑んで帰りたい、山に。
本音は左肩まだ疼く、ひび割れた肋骨も軋む。
一歩ごと左足ずきり痛み奔る、どれも雪崩に受けた傷で、その痛みすら愛しい。
帰りたい山に、願い見あげる月の回廊を呼ばれた。
「英二くん、飲み直さないかい?」
落ちついた声の先、半白の髪が灯にうかぶ。
わざわざ迎えにきた旧知にふりむき微笑んだ。
「ありがとうございます、堀内さんはお時間よろしいんですか?」
本当は忙しいだろう、けれど「飲み直す」時間も欲しい。
そんな天秤のまんなかで篤実な瞳は笑った。
「あの客が帰ってすぐ出るのも難だろう?まだ話したいしな、」
穏やかな声の肩はジャケット脱いでいる。
今からこそ寛ごう、そんな誘いに笑いかけた。
「すみませんでした、輪倉さんを勝手に呼んで、」
「本当に悪いと思ってるのかい?」
笑い返してくれる言葉に懐かしい。
どこか似ている人に微笑んだ。
「その訊き方、祖父と似ています、」
「それは光栄だね、おや、」
篤実な笑顔が外を仰ぐ。
回廊たたずんだワイシャツの背、のどやかに検察官は笑った。
「いい月だ、月見酒するか、」
笑顔そのまま腰下ろして、スーツの膝さらり胡坐かく。
畳廊下ふる月の席、ならんで胡坐くむと言われた。
「英二くん、正座さっきは辛くなかったか?怪我してるんだろう?」
「大丈夫です、」
答えて笑いかけた隣、月明かり笑顔が優しい。
その篤実な瞳が問いかけた。
「そこまでして私に輪倉さんを会わせたのは、一緒に土下座するためだろう?」
ほら、見透かしてくれる。
こんなところも似ていて微笑んだ。
「誘導尋問まで祖父と似ていますね、」
「ははっ、宮田さんの一番弟子だと自負してるよ?」
月明かり笑ってくれる。
青い光やわらかな回廊、ひそやかな衣擦れに酒が香った。
「失礼いたします、」
さらり着物姿ひざまずいて盆を置いてくれる。
白磁なめらかな酒器の膳、結髪きれいな女将は微笑んだ。
「お風邪など召さないでくださいね、まだ冷えますから、」
「ありがとう、」
礼に笑いかけた回廊、胡坐の板縁あわく温かい。
床暖房を入れてくれた、そんな気遣いの背を見送って言われた。
「さっき英二くん、輪倉さんの心がっちり掴んだな?」
穏やかなトーン朗らかに笑う。
昔なつかしい笑顔に盃と笑いかけた。
「どうでしょうか、」
「掴んでたよ、彼の眼は君に見惚れてた、」
月の灯篭に笑ってくれる、その眼おだやかに篤実が深い。
何年も会っていなかった、けれど変わらない祖父の書生は言った。
「彼は君が誰の孫か知ってるんだろう?総務省の官僚にとって君は特別なはずだ、そういう君が一緒に土下座したら感動するしかない、」
その通りだろう、だから輪倉を招いた。
ここまで気づいたなら言われるな?そんな貌が言った。
「英二くん、総務省の役人を心酔させたい目的はなんだい?」
ほら緩めない。
―いつも通りにはいかないよな、堀内さん相手だと?
この男は「緩めない」妥協しない。
そんな穏やかな笑顔の底へ笑いかけた。
「ご心配させていますね、すみません、」
「謝るんなら聴かせてほしいよ、そうだろう?」
穏やかな声、盃なめらかに酒ゆれる。
月ふる苔しんと土が薫って、庭木立さざめく闇に問われた。
「殺された学者の話をしてくれたね、その復讐に輪倉さんは利用できそうかい?」
酒が薫る、それから土の香。
―やっぱり怖い人だな?
東京高等検察庁検事長 堀内祐輔。
その地位に昇るだけ能力は高い、ふさわしい人格も備える。
そういう相手だからこそ「勘づかせたい」まま微笑んだ。
「佳い酒ですね、」
ただ微笑んで酒ふくむ、その頬を視線がなでる。
―俺から聴くよりも勘づかせたほうが信じる、話すのはそれからだ、
勘づくだけの断片は渡した、あとは堀内自身が辿りつく。
その思考もう始まっているだろう、そんな視線が尋ねた。
「復讐を正義だと、君は想うかい?」
ことん、
白磁そっと盆を鳴る。
徳利かたむけて酒ふらす、馥郁のぼらす香に微笑んだ。
「堀内さんの正義って、なんですか?」
この質問は懐かしい。
『英二、正義とは何だと想う?』
遠い声、遠い微笑、あの貌ほんとうに好きだった。
誰より尊敬したあの眼ざし、その欠片が月に笑った。
「自分の責任をとることかな、刑罰もそういうものだ、」
酒ふくんだ唇、あまい馥郁に香かすめる。
頬しずかに冷やす苔の風、どこか森と似た香に微笑んだ。
「それなら山と同じです、山は自己責任ですから、」
だから選んだのかもしれない、自分も。
想い見あげる軒端の月、冴えわたる雲の光に訊かれた。
「なあ英二くん、なぜそこまで山に懸ける?」
穏やかな声が訊く、その問いかけ続いた。
「どうしても友達に山を登らせたいってな、そのために輪倉さんは土下座したんだろう?あんなこと官房審議官に就くような人間は普通しない、なにかの罠とも思ったが嘘の眼じゃなかった。それだけ懸けたい何かが山にあるんだろうが、私にはよく解らんよ?」
問いかけに酒ふくむ、甘い馥郁とそれから土の匂い。
唇かすめる風あわく樹肌が香る、その梢きらめく月に微笑んだ。
「山はすべてが自己責任です。自分の責任をとることが正義なら、山も正義なのかもしれませんよ?」
だから惹かれたのだろう、あの写真。
『副隊長が撮った写真だよ、訓練の時だね、』
銀色の尾根、まっすぐ立つ青いウィンドブレーカー。
白く染めぬいた警視庁の文字、細身のくせ広やかな大きな背。
警察学校の資料であの背中に出逢った、そうして今ある道に笑った。
「たとえば司法の正義は人間が作ったものです、でも山は人間が作ったものじゃありません。そういう山に自分の責任と登っています、」
自分の責任、だから君も救える。
そのために今夜ここに来た、その理由に問われた。
「山も正義か、復讐も正義になり得るってことかい?」
やっぱり訊かれるんだ?
緩めない声にふりむいて、その眼まっすぐ笑いかけた。
「解りません、ただ俺は花を見せたいだけです、」
君に花を見せたい。
唯ひとつの願いに穏やかな声が訊いた。
「花、誰にどんな花を?」
本当のこと答えたら、どんな貌するだろう?
―まず驚くよな、俺とお祖父さんを重ねてるし、
あの祖父と重ねて自分を見る、だから今夜もこの店を選んだ。
そんな篤実の瞳まっすぐ見つめて綺麗に笑った。
「世界でそこだけに咲く花を、唯ひとりに、」
(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS】
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英二24歳3月
第84話 整音 act.27-side story「陽はまた昇る」
消えてゆくエンジン音、それから静寂。
葉擦れの音、頬ふれる冷気、さらさら水が匂いだす。
池は湧水なのだろうか、そんな苔の庭めぐらす廊下を月昇る。
「きれいだ、」
声こぼれて懐かしくなる、あの月あの場所ならもっと綺麗だ。
―奥多摩も月かな、
月がきれいだ、
そう心から知ったのは奥多摩の日々。
毎日を山に懸けて駈けた、あの時間いつ戻れるだろうか?
「帰りたいな、」
ひとりごと微笑んで帰りたい、山に。
本音は左肩まだ疼く、ひび割れた肋骨も軋む。
一歩ごと左足ずきり痛み奔る、どれも雪崩に受けた傷で、その痛みすら愛しい。
帰りたい山に、願い見あげる月の回廊を呼ばれた。
「英二くん、飲み直さないかい?」
落ちついた声の先、半白の髪が灯にうかぶ。
わざわざ迎えにきた旧知にふりむき微笑んだ。
「ありがとうございます、堀内さんはお時間よろしいんですか?」
本当は忙しいだろう、けれど「飲み直す」時間も欲しい。
そんな天秤のまんなかで篤実な瞳は笑った。
「あの客が帰ってすぐ出るのも難だろう?まだ話したいしな、」
穏やかな声の肩はジャケット脱いでいる。
今からこそ寛ごう、そんな誘いに笑いかけた。
「すみませんでした、輪倉さんを勝手に呼んで、」
「本当に悪いと思ってるのかい?」
笑い返してくれる言葉に懐かしい。
どこか似ている人に微笑んだ。
「その訊き方、祖父と似ています、」
「それは光栄だね、おや、」
篤実な笑顔が外を仰ぐ。
回廊たたずんだワイシャツの背、のどやかに検察官は笑った。
「いい月だ、月見酒するか、」
笑顔そのまま腰下ろして、スーツの膝さらり胡坐かく。
畳廊下ふる月の席、ならんで胡坐くむと言われた。
「英二くん、正座さっきは辛くなかったか?怪我してるんだろう?」
「大丈夫です、」
答えて笑いかけた隣、月明かり笑顔が優しい。
その篤実な瞳が問いかけた。
「そこまでして私に輪倉さんを会わせたのは、一緒に土下座するためだろう?」
ほら、見透かしてくれる。
こんなところも似ていて微笑んだ。
「誘導尋問まで祖父と似ていますね、」
「ははっ、宮田さんの一番弟子だと自負してるよ?」
月明かり笑ってくれる。
青い光やわらかな回廊、ひそやかな衣擦れに酒が香った。
「失礼いたします、」
さらり着物姿ひざまずいて盆を置いてくれる。
白磁なめらかな酒器の膳、結髪きれいな女将は微笑んだ。
「お風邪など召さないでくださいね、まだ冷えますから、」
「ありがとう、」
礼に笑いかけた回廊、胡坐の板縁あわく温かい。
床暖房を入れてくれた、そんな気遣いの背を見送って言われた。
「さっき英二くん、輪倉さんの心がっちり掴んだな?」
穏やかなトーン朗らかに笑う。
昔なつかしい笑顔に盃と笑いかけた。
「どうでしょうか、」
「掴んでたよ、彼の眼は君に見惚れてた、」
月の灯篭に笑ってくれる、その眼おだやかに篤実が深い。
何年も会っていなかった、けれど変わらない祖父の書生は言った。
「彼は君が誰の孫か知ってるんだろう?総務省の官僚にとって君は特別なはずだ、そういう君が一緒に土下座したら感動するしかない、」
その通りだろう、だから輪倉を招いた。
ここまで気づいたなら言われるな?そんな貌が言った。
「英二くん、総務省の役人を心酔させたい目的はなんだい?」
ほら緩めない。
―いつも通りにはいかないよな、堀内さん相手だと?
この男は「緩めない」妥協しない。
そんな穏やかな笑顔の底へ笑いかけた。
「ご心配させていますね、すみません、」
「謝るんなら聴かせてほしいよ、そうだろう?」
穏やかな声、盃なめらかに酒ゆれる。
月ふる苔しんと土が薫って、庭木立さざめく闇に問われた。
「殺された学者の話をしてくれたね、その復讐に輪倉さんは利用できそうかい?」
酒が薫る、それから土の香。
―やっぱり怖い人だな?
東京高等検察庁検事長 堀内祐輔。
その地位に昇るだけ能力は高い、ふさわしい人格も備える。
そういう相手だからこそ「勘づかせたい」まま微笑んだ。
「佳い酒ですね、」
ただ微笑んで酒ふくむ、その頬を視線がなでる。
―俺から聴くよりも勘づかせたほうが信じる、話すのはそれからだ、
勘づくだけの断片は渡した、あとは堀内自身が辿りつく。
その思考もう始まっているだろう、そんな視線が尋ねた。
「復讐を正義だと、君は想うかい?」
ことん、
白磁そっと盆を鳴る。
徳利かたむけて酒ふらす、馥郁のぼらす香に微笑んだ。
「堀内さんの正義って、なんですか?」
この質問は懐かしい。
『英二、正義とは何だと想う?』
遠い声、遠い微笑、あの貌ほんとうに好きだった。
誰より尊敬したあの眼ざし、その欠片が月に笑った。
「自分の責任をとることかな、刑罰もそういうものだ、」
酒ふくんだ唇、あまい馥郁に香かすめる。
頬しずかに冷やす苔の風、どこか森と似た香に微笑んだ。
「それなら山と同じです、山は自己責任ですから、」
だから選んだのかもしれない、自分も。
想い見あげる軒端の月、冴えわたる雲の光に訊かれた。
「なあ英二くん、なぜそこまで山に懸ける?」
穏やかな声が訊く、その問いかけ続いた。
「どうしても友達に山を登らせたいってな、そのために輪倉さんは土下座したんだろう?あんなこと官房審議官に就くような人間は普通しない、なにかの罠とも思ったが嘘の眼じゃなかった。それだけ懸けたい何かが山にあるんだろうが、私にはよく解らんよ?」
問いかけに酒ふくむ、甘い馥郁とそれから土の匂い。
唇かすめる風あわく樹肌が香る、その梢きらめく月に微笑んだ。
「山はすべてが自己責任です。自分の責任をとることが正義なら、山も正義なのかもしれませんよ?」
だから惹かれたのだろう、あの写真。
『副隊長が撮った写真だよ、訓練の時だね、』
銀色の尾根、まっすぐ立つ青いウィンドブレーカー。
白く染めぬいた警視庁の文字、細身のくせ広やかな大きな背。
警察学校の資料であの背中に出逢った、そうして今ある道に笑った。
「たとえば司法の正義は人間が作ったものです、でも山は人間が作ったものじゃありません。そういう山に自分の責任と登っています、」
自分の責任、だから君も救える。
そのために今夜ここに来た、その理由に問われた。
「山も正義か、復讐も正義になり得るってことかい?」
やっぱり訊かれるんだ?
緩めない声にふりむいて、その眼まっすぐ笑いかけた。
「解りません、ただ俺は花を見せたいだけです、」
君に花を見せたい。
唯ひとつの願いに穏やかな声が訊いた。
「花、誰にどんな花を?」
本当のこと答えたら、どんな貌するだろう?
―まず驚くよな、俺とお祖父さんを重ねてるし、
あの祖父と重ねて自分を見る、だから今夜もこの店を選んだ。
そんな篤実の瞳まっすぐ見つめて綺麗に笑った。
「世界でそこだけに咲く花を、唯ひとりに、」
(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS】
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