萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第85話 暮春 act.6-side story「陽はまた昇る」

2016-08-09 22:50:18 | 陽はまた昇るside story
He keeps, and gives to me His death’s conquest. 命の稜線
英二24歳3月下旬



第85話 暮春 act.6-side story「陽はまた昇る」

ツェルトは新雪に埋もれていた。

「朝に出た形跡はないな、」

簡易型の薄い生地、さらり雪こぼれてたわむ。
踏みだして雪ずぶり沈む、股下まで埋もれピッケルふるう。

「積雪60センチってとこか、」
「はい、後藤さんは後ろから来てください、俺がラッセルします、」

ピッケル掻いた雪が舞う、吐息あわく白く昇る。
芽吹きまだ遠い木々の挟間、深い声が呼んだ。

「宮田っ、あそこだ!」

登山グローブの指がさす。
息白く舞う三月の冬、あわい木洩陽にオレンジ色が映る。

午前11時35分、遭難者を発見した。



俯せで顔は見えない、だが骨格は男性。
新雪に積もられ隠れた足、登山ジャケットのオレンジ色も白く淡い。

そして動かない。

「亡くなられてるな、霜が積もっている、」
「はい、」

ウェアまで凍てつく春の山、その北斜面で登山者は動かない。
俯せた頭部こぼれる髪も白く凍えて、登山ザックもない空身に上司が呟いた。

「…せめて南でビバークしていればなあ、」

もし南斜面なら、夜の体感温度は違っている。
けれど選んでしまった北の森に英二も口開いた。

「登山靴も履いていません、寒さに耐えきれない精神錯乱かと思われます。昨夜は体感温度もマイナス10度を超えたはずです、」

積雪1メートルはある北の樹林帯、谷から吹き上げる北風が頬なぶる。
斬られる冷感は真昼の今も鋭い、これが夜の吹雪ならもっと凍える。
その寒さが精神錯乱を誘発し着衣を脱ぎ、凍死に至るケースは多い。

「そうだなあ、昨夜は町でも冷えこんだよ?彼も吹雪で歩けなくなったのかもしれんなあ、」

深い声おだやかな眼ざしは悔恨が悼む。

“もっと彼に知識があれば、技術があれば?”

そんな仮定めぐらす北斜面、新雪あおらせ舞いあがる。
谷底から這いあがる風花に吐く息も白い、その彼方から雪音が近づいた。

「後藤さん?宮田も一緒かね、」

ざぐりざぐっ、踏みしめる雪音にテノールが呼ぶ。
聴き慣れた声にふりむいて応えた。

「国村小隊長、遭難者を発見しました、」
「遭難者?」

テノールかすかに硬くなる。
ざぐりざぐり雪音が速まって、雪の樹林に青い冬隊服が現れた。

「あー…初歩的ミスなビバークか、春だねえ?」

白い吐息そっとテノールが悼む。
そんな後輩にベテラン警察官はうなずいた。

「国村もビバークミスの凍死だと思うかい?」
「見たカンジじゃ事件性はなさそうですけどね、雪と霜の具合から言っても昨夜かねえ?」

応えながら遭難者の傍ら、長身が跪く。
細身しなやかな冬隊服姿、そのくせ広やかな背中に言った。

「死体見分をします。国村さん、メモお願いできますか?」

手を動かす側、メモとる側、その分担いつも決まっている。
応急処置も死体見分も事情聴取してくれたパートナー、けれど今日は微笑んだ。

「今日は俺に見分させてくれないかね?」

え?

―光一が死体見分を?

意外で見つめてしまう、けれど確かに「まったくしていない」わけじゃない。
先輩だから経験当然ある、自分が週休の日も行っていただろう?それでも驚いて訊いた。

「光一が死体見分するのか?」
「だね、」

雪の森、澄んだ瞳が笑ってくれる。
青いヘルメットの翳まっすぐな視線は微笑んだ。

「医者になったら検案があるだろ、勉強の場をもらってイイかね?明日からは現場ないからさ、」

ほら、もう未来を見ている。
ほんとうに辞めるんだ?あらためての今にテノールが続ける。

「最終日の今日に出会ったご遺体なんてね、勉強しろ言われてるって思うしかないだろ?きっちり医者になって警察医もヤレってさ?」

雪深い森の底、斃れたオレンジ色にテノール低く響く。
くゆらす靄に雪白の貌しんと静かで、けれど訊いた。

「凍死体だぞ、大丈夫か?」

辛くないはずがない、だって記憶がある。
それでも山っ子はすこし笑った。

「オヤジたちのコトなら超えたよ?北鎌尾根とアイガーでね、」

あのときに?

『槍ヶ岳っ、雅樹さんを返せよっ!』

白銀の稜線に谺した、あの叫び声。

悲痛、哀悼、愛惜、あの声すべて響いた。
あの声きっと一生忘れられない、それでも北鎌尾根を超えた声が笑った。

「あのさ英二、あのとき槍のテッペンにいたのはさ、おまえじゃなかったよ?」
「え…?」

どういう意味だろう?
記憶と見つめた雪の森、澄んだ瞳そっと笑った。

「北鎌尾根では“俺”って言ってたよ、でも、テッペンでは“僕”になってたね?」

木洩陽ふる雪の上、遺体のかたわらテノール響く。
澄んだ瞳は静かに笑って穏やかな声が微笑んだ。

「おまえは知らないはずだろ、雅樹さんがナンて一人称つかってたかってさ?」

あのとき、あの山頂は確かにそうだ。

『約束するよ、だから忘れないで?僕はずっと一緒に山に登っているよ、そうやって僕は光一と一緒に生きている、』

あのとき自分の唇が出した声、けれど誰の言葉だった?
あのときなぜ“僕”だったのか?記憶にザイルパートナーが微笑んだ。

「あのとき“僕”だったからアイガーの夜で超えたワケ、雅樹さんごとオヤジたちもマルっとさ?だから医者になろうって決められたね、」

北鎌尾根と槍ヶ岳、そしてアイガー北壁。
あの場所たちで自分も見ていた、その俤ごと笑いかけた。

「今も光一の隣にいるよ、雅樹さんは、」

そう、だから自分じゃない。
もう離れて歩きだす瞳はきれいに笑った。

「ありがと英二、じゃ見分のメモよろしくね?」
「うん、その前に無線いれるな?」

肯いて無線機セットしながら手帳とペンを出す。
その傍らベテラン警察官の横顔を一滴、光こぼれた。

「うん…そうか、」

つぶやくような深い声、けれど静かに明るい。
この声こそ想いどれだけ抱くのだろう?そんな独り言に瞳そっと閉じ無線つないだ。

「こちら宮田、日陰名栗峰のコル北斜面にて遭難者を発見、既に死亡。見分を国村小隊長と始めます、後藤副隊長も一緒です、」

無線機に報告してゆく新雪の森、青い背中ふたり合掌する。
斃れた登山者への哀悼しずかな横顔、若い瞳は穏やかに感染防止グローブ嵌める。
落ちついた仕草もう惑わない、そして深く澄んだテノールが言った。

「後藤さんも俺の見分なんて久しぶりだろ?最後にシッカリ見といてよ、次は医者としての検案だからさ?」

ひさしぶり、最後、次は。

そんな言葉の眼ざしは静かに明るい。
向きあう死を悼みながら次を祈る、そんな横顔にベテラン山ヤは肯いた。

「ああ、光一なら立派な医者になるだろうよ?雅樹くんも誇らしがる山の医者だ、」

誇り高い山ヤ、そんな二人が死と雪の稜線に佇む。
そこにある時間どれだけ積もる、その想いに深い低い声が紡ぐ。

「ありがとうなあ光一、警察官の経験も生かすってなあ…ありがとうよ?」

ベテラン山ヤの声が告げる、その想い静かに雪稜を届く。
吹きあげる北の谷風は凍えて、けれど温かな声ふりつもる光に雪焼の頬がまぶしい。


(to be continued)

【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS」】

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