と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

人生処方箋 

2008年08月11日 18時57分35秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 現代詩手帳という雑誌があります。これの2004年9月号をぱらぱらとめくっていたら、ケストナーの「人生処方箋」という詩を特集していました。その中の、「汽車にたとえて」がすこぶるいい。
 部分的に紹介してみると、
「わたしたちはみんな おなじ汽車にのって
 時代を突っ切って旅行しています」
から始まって、その汽車は
「いつまでたっても終点に着きません」と出て来ます。

 なにか銀河鉄道999のようなあやしい雰囲気です。

 そして一等の客車に、
「ひとりだけ デブの男が 赤いビロードの席に
 ふんぞりかえり 苦しそうに息をしています」
とある。

 これまた、いい。
 もっといいのは現代詩手帳の括弧書き。「人生を見渡したいとき 問題が生じたとき」とあります。そういうときに読みなさいよ、というワケです。

 フンフンと鼻息をしながら、うまいこと書くなぁと思っておりました。

 この号は、現代詩手帳には珍しい内容で、いろいろな人生問題で詩が薬になりうるかというもので、こんなのを所有していることすら気がつかないというくらいのわたくしの迂闊さ。不勉強ぶり。

 他にもいろいろあって、泣くに泣けないときに、草野心平の「デンシンバシラのうた」もいいとのたもう。
 
 一部引用してみましょう。

 「稲妻が内部をかけめぐり。
  丸い蜜柑がのけぞりかえる。
  そんな事態になったなら。
  白ちゃけて。唸るようにさびしくなったなら。
  人じゃない。相棒になるのは。
  夜中の三時のデンシンバシラだ。」


 どうですか?
 なかなかいいでしょう。わたくしなど、年柄年中体の中を稲妻がピカピカドンドンと鳴っているんですから、始末に負えないです。白ちゃけて、唸るようにさびしくなったらって、これもしょっちゅうです。

 他にも、人間が尊敬できなくなったときにというテーマで、松本泰介氏が「男の子と赤ん坊と、若い主婦に語りかける言葉」というのもあるのです。正確には辻征夫のことを書いているんですが、労働者としての若い男の視点から幸福とはなにかを考えていると言ってもいいのかなと思った次第です。

 受験勉強にちょっと疲れたとき、詩は短いですからちょっと読むのにとてもいいのです。
 そんなひとときもまた大切なのではないでしょうか。

 
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ドンキホーテ

2008年08月11日 06時40分44秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 毎晩のように家庭でメール書きやら、もうひとつやっているブログの管理、HOME PAGEの更新などをやっています。インターネット草創期の時期にまったく不明ながらも勉強をさせていただいて、それからずっとこんな生活を送っています。なんでもやってみよう、やったろうという観点から実践をしてきました。

 いわゆる学校に生徒と先生という関係を持たせていただいた方の(つまり教え子というもの=嫌いな言葉 ※1)ブログを読んで、またまた県銚に対するご意見がありました。他の方にもいろいろな書き込みがあるのを、承知しております。自動的に拾っております。ありがたい限りであります。その全てにひとつひとつ反論をするつもりはありません。情報ソースも含めて、「絶対に正しい」はあり得ません。受け止め方の問題であって、絶対の真理など早々あるものではないのだと思ってきました。

 たとえば、県銚に来る前の坂道。これを非常に急坂ととらえるか、銚子の学校の中ではゆるやかととらえるかということは、数値で表せば簡単なのです。ところが、「受け取り方」でまったく違ってくる。ある中学生とそんなことで話をしたのです。県銚の坂は急か?って。一昨日。体験入学に来てくれた生徒でした。


 悪意のこもった受け取り方をしていれば、急坂になります。善意なら、これまた違ってくる。当日暑かったので、急坂になってしまう場合もあります。

 Aという考え方、Bもあり、Cもある。しかも、Aには裏からみればAAになってしまう場合がある。AAAということもある。

 総合的に判断するというのは、そういう複雑化の要素をすべて飲み込んでいくことです。

 結果論から言ったら、つまり後から言えばなんでも言えるワケです。評論家の気軽さでしょう。自分には責任がないからと言って逃げることもできる。これまた気軽な現実逃避です。

 わたくしは、そういうこともすべて含めて結果責任を問われることになります。逃げるワケにはいきません。

 それでもなおかつ県銚を向上させていきたいと思っています。ドンキホーテだって?


 笑われてもいいのです。笑っている方に、それだけの役割があるのでしょうから。

 わたくしは、それでもなつかつ、恥を知れということだけは守るつもりです。基本的なスタンスにそれを置いていきたいと思っています。山本七平先生とは違った意味での恥の文化で育ちましたから。つまり相対の文化ではありませんから。相手のことは意識せず、行動を心がけています。比較対象をしないということが、結構重要だと思ってきましたので。

 さぁ、今週も暑いんでしょうね。
 在校生諸君は、勉強に、部活に忙しいと思います。
 いくつかある君たちの「プロフ」というのを見させていただいていますが、わたくしの期待とは裏腹に、楽しく過ごしておるようですね。ま、それもありでしょうけれども。でも、「県銚」という文字をちょっとでも使うと、わたくしのような者にすべて把握されてしまいますよ。情報発信というのは怖いものです。相当気をつけないと。ましてや、顔を出すなんてやめましょうね。自信があってもやめましょう。全校集会でも注意しましたけれども。

 元気に過ごしてください。
 今週も。

 

※1 教え子という言葉は、教えたというこちら側の一方的な考えで、教わりたくなかったという方への配慮をしていないような気がしています。





 
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/