と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ウエイトトレーニング室

2008年08月29日 22時03分16秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 県銚にもウエイトトレーニング室があります。

 部活をやりたい人にはなかなかの設備ですよ。

 今日も学校の帰りにスポーツジムに行きました。日課のようなものです。油断したらすぐメタ*になってしまいますからね。油断大敵ですよ。それでおない歳の友人がいて、会話をかわしたのです。
 「ちっとも体型かわらんなぁ」
 「おかげさんで」

 スロー・トレーニングというのをやっているのです。もう五年くらい。その前はおきまりの無酸素運動をやっていましたし。
 
 結果的には、やせてもいませんが太ってもいない。確かに友人の言うとおりです。明日は柔道の稽古日。その前に必ずジムに行って準備運動をしてから、そしてバーベルを上げてから柔道の稽古に突入します。それも週間の予定に入っています。

 運動部の諸君。
 自己管理ができなくては、勝負になりませんぞ。
 特に朝食と運動の関連は重要です。
 さらに、朝食と成績も関連しているのではないかとわたくしは思っているくらいですから。もっと言えばきちんと食べている生徒に成績のいい子が多いのではないかという仮説です。

 わたくしは、社会人に特有の宴会もつきあいのいい方ではありません。三回に一回は断念します。どうしても太ってしまうからです。それにもうそんな時期も過ぎ去りましたし。うまれつき良くないわたくしの脳みその働きにもよくありません。無理してつきあうのは。また、斗酒なお辞せずでは長生きも出来ません。

 こころ許せる友人と、なかなか手に入らない少量の美酒を含みながら、書籍のことや古典を肴に、人物論を交わすことのみ楽しみになってきました。したがって騒々しいところが大嫌いになってきました。聞こえるのは水音のみという和風庭園で、食事を楽しみます。要するに枯れてきたのかもしれません。

 無理せず、無駄なく、たんたんと、油断なく中学校生活を送ることです。激することなく。つまりキレることなく。
 
 難しいとは思いますが。

 二学期、中学校訪問をさせていただくときのプランもできました。教頭先生と練りましたので。実におもしろい企画ができました。

 楽しみにしていてくださいね。

 
 
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日本語の大切さ

2008年08月29日 12時54分10秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 手前味噌になりますから、できるだけ書かないようにしていたのです。が、県銚の教務主任の先生がおとといの地区PTAで、図書館利用と国語の力の重要さを保護者の方に訴えていました。脇で聞いていて、なるほど、なるほどと首肯していたしだいです。しかも先生は、理科の先生です。理工系の専門家が国語力も大事ですよと仰るのです。真剣に取り組んでくださいね。

 確かに、勉強は日本語でしますから。もっとも、思考も作文も英語でできるという人には釈迦に説法でしょうけれども。

 今日またまた銚子の文化会館で行われた日本語暗唱教室に迷惑を承知で見学に行かさせていただきました。また来たのかと思われるのではないかと、ちょっとしつこくて気が引けたのですけれども。

 どんな企画に、あるいは会合に参加させていただくときも、わたくしはこれで最後だと思っています。そうすると気合いが違ってきますよ。もうこれで永遠にご縁が切れてしまうかも知れないと思うのと、明日も惰性でつきあってくださるのだろうと思うのでは天と地ほどの差がありますからね。いつ関係を切られてもいいだけの覚悟でいろいろな研修会などに取り組むことです。県銚の授業だけは継続性がありますけど。

 今日は竹取物語でした。特定非営利活動法人 国際教育推進プロジェクトBeCom様主催です。小学校の4年生まで。かわいい子供たちに魅せられてついつい出かけてしまいます。柔道もそうです。幼子たちの真剣な姿がたまらなくかわいいのです。孫がいても不思議でない年齢になりましたので、余計そう思います。

 表現の仕方がよくないですが、わたくしを騙すのには幼子たちに登場してもらうのが一番いいのでしょうね。よろこんで騙されてしまいますから。実に簡単です。

 なにしろ良寛さんをこよなく尊敬申し上げていますし、岩波文庫ですが詩集も持っています。(他にも若干)そんなのはなんの自慢にもならんでしょうし、良寛さんにしかられてしまいますけど。良寛さんは、言葉には実にやかましかったということですが、子どものように素直に、何か楽しそうに生きている人という感じがしています。手まりつきつつ生涯を終えられた良寛さんの歌で好きな歌を紹介します。

 霞立つ 長き春日を 子どもらと
     手まりつきつつ 今日も暮らしつ


 もっとすきなのがこちら。

 こどもらと 手まりつきつつ この里に
     あそぶ春日は 暮れずともよし





 さて、竹取物語をどう料理されるのかな?と期待して見させていただきました。さすがに子供たちの興味関心を引きつけながらぐいぐい引っ張っていかれる。力量のある先生は違います。思わず持参したノートにいろいろとメモをしてしまいました。指示の仕方、発問の方法、黒板の使い方等々に感心しました。幼子たちへの思いやり、愛情がにじみ出ておられる。ここが女性の先生に絶対にかなわない部分です。唸りました。

 わたくしにはできないなぁと思いました。
 第一、わたくしのおっかない顔では子供たちが泣き出す可能性が高い。教育、特に小さい子にはある種の親しみと、人間的優しさがなくてはならないのです。やわらかさと言ってもいいのでしょうか。

 この夏帰省した折、数年前に保育園の園長先生を定年で退職した従姉のところに行ったのですが、二人で盛り上がったのはまさにそのこと。彼女は、もうおあばぁちゃんです。が、まだまだ若い保母さんとも話をしている。指導を乞う保母さんも多い。それで、何を話したかというとわたくしに小さい子供の指導ができるか、できないかということです。
 「ヒデボウにはできないよ」 (まだわたくしは**ボウなのです)
 その後思い切り笑いあいました。
 「柔道で顔が変形しちゃってるよ」
 「は?」
 もう、どうしようもない。教育の大先輩でありますから。



 言葉の美しい人には魅力があります。
 また、笑顔の素敵な人にも魅力があります。
 人間的優しさがにじみ出ているからです。
   (全て男女問わず)

 今日の暗唱教室で、講師の先生もそうでしたが、ボランティアの方々の活動ぶりを拝見させていただいて本当にそう思いました。
 さらに、今日はそのボランティアの中に、30年ぶりにお会いした海上中学校時代の生徒であった方と出会いました。男子バレー部主将だった方です。懐かしくて思わず握手してしまいました。ご迷惑だったしょうね。手なんか握られたくなかったとか(笑)

 学校から呼び出されましたので、最後までいることができませんでした。それだけがこころ残りでした。

 わずかな時間ではありましたが、いいひと時でありました。夏休み最後の思い出になりました。もう見学できないかもしれませんし。明日のことはわからないのが人間です。今日一日一生懸命仕事をさせていただいて、それだけで感謝する日々ですから。

 最後に、在校生諸君、教育関係に行きたいと思っている人、こういう形もいいものですよ。ボランティアという形でやってみるのも。強制はしませんが。当たり前ですけれども。


 
 

 
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あと数日

2008年08月29日 12時06分35秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 とうとうあと数日で夏休みが終わります。待望の二学期が始まります。楽しみで楽しみで待っていただろうと思います。在校生諸君のそういう気持ちに可能なかぎり応えたいと県銚は努力しています。わたくしも在校生諸君に早くお会いしたい、元気な顔を見たいと思っています。

 生徒の本分は、学校で勉強することにあります。

 このことをふまえないと、道を踏み外します。本来歩くべき道、その道をまっすぐ行けばある目標地点に到達することのできるのが「道」であります。その道は、国が作ってくれるのでもなく、県が作ってくれるのでもない。保護者でもありません。

 自分で作るしかないのだと思います。

 自分で考えていくことが最も尊いのです。妙な妥協をしたり、自己限定をするとそのへんがあやふやになってしまいます。他人にアドバイスしてくれといいながら、結果を責任転嫁してはなりません。

 よく大学を出ても何をしたらよいかわからないという人がいます。それが夏目漱石に出てくる高等遊民なのです。その日その日が生きるのに精一杯であったら、俺は私は何をして生きていったらよいのかわからない、とはならないでしょう。(わたくしはそう思っているのですが)

 インテリと呼ばれる人に多いのですが、評論家・傍観者として生きるのもまた高等遊民の変形です。当事者意識のまったくない人。自分ではなにもやらず、他人のやったことをせせら笑ってばかりいる人。なんかロシアの長編小説にたくさん出てきますよね。これからはそういう人は生き残れない。もっとも、わたくしなんか、当事者意識の固まりだし、まったくインテリの資格はないので大安心しております。第一、高校の同級生たちに笑われてしまいます。

 その辺のインテリのプライド、エリート意識を妙におもしろおかしく書いたのが作家の太宰治です。

 「なにはさてお前は衆にすぐれてゐなければいけないのだ、といふ脅迫めいた考へからであつたが、じじつ私は勉強してゐたのである。三年生になつてからは、いつもクラスの首席であつた。てんとりむしと言はれずに首席となることは困難であつたが、私はそのやうな嘲りを受けなかつた許りか、級友を手ならす術まで心得てゐた。蛸といふあだなの柔道の主将さへ私には従順であつた。教室の隅に紙屑入の大きな壺があつて、私はときたまそれを指さして、蛸、つぼへはひらないかと言へば、蛸はその壺へ頭をいれて笑ふのだ。笑ひ声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついてゐた。」(津軽)

 
 なぜ太宰治に違和感を覚えるかというと、柔道をコケにしているからとは言わないですが、ここにはある種の選民思想があるからです。おかしな人です。おかしいけれども全集まで買って夢中して読んだ記憶がありますが。富岳百景が太宰の人生再建物語で、これはこれでなかなかいい。結末は知ってのとおり。まったく悲劇なのか喜劇なのかわからぬ生き方をしてしまった人です。よく芥川と比較されますが、太宰は人間関係に死して、芥川は芸術に死したとか言われていますし。

 これ以上は止めましょう。

 二学期、考えることは多いですから、在校生諸君、とくに3年生は大変です。進路をきめなくてはならない。

 先生方を大いに活用してください。



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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/