と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

遅読こそ王道

2009年04月11日 22時18分15秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 教育の世界でずっと生きてきましたので、時には問題を抱えて困っている生徒への対応についてわたくしなりに勉強させていただくときもありました。
 
 なかでも国分康隆先生、河合隼雄先生、諸富祥彦先生の著作物にいろいろと刺激を受けてきました。

 特に、意味論を申してくる生徒さんには、こちらも理論武装をしていないと困ったことがありましたから。生徒の方が相当のレベルにあるわけです。

 明恵という人が、古典的人物としております。彼は、十三歳にして、わが人生完成せりと言ったほどの俊秀であります。若い天才は、全てが見通せるようです。かつての教え子という関係にいさせていただいた「生徒」という方のBLOGにも、彼がエリートであるが故の苦悩もいろいろ垣間見えて逆にかわいそうになります。なぜ、そんなに光を受けたがるのでしょうか。「ただある」「ただただ普通に生きている」ということのありがたみを感じていただきたいと思って、心配しながらBLOGを拝見させていただいています。

 河合隼雄先生の文庫本「対話する人間」に、遅読こそ王道という文章があって、わたくしはこれは本当だなぁと思いました。

 先生の謙遜だとは思うのですが、偉そうな哲学書もちっともわからんし、京大に入学してからも、友人たちがあれこれ早熟な読書体験を知ったかぶりして議論する。ちっともついて行けなかったのだそうです。ところが、ここからわたくしは笑ったのですが、河合先生がそれらの偉そうな本を時間をかけて、じっくり読んでわからないと思ったこと、疑問に思ったことを友人たちに聞いてもまったく答えられず、先生が疑問に思ったことすらもなにも考えていなかったのだそうです。

 受験参考書なども数さえこなせばいいというのではありません。
 一冊をじっくりやったおかげで、先生だけが京大に合格したそうです。

 ここに一つの真理が隠されているようにわたくしは思ったのです。



 もっともわたくしは河合先生のような勉強家でもありませんし、華やかな光を求めて右往左往している人間でもありません。
 ただただ普通に生きている凡人であります。

 人より遅れているし、なにをやっても時間がかかる。
 それでもわたくしは自分に絶望したことはありません。
 他人と比較をしないからです。

 他の人ではなかなか驚かないことに、いちいち驚いているつまらない人間です。
 紀州犬と散歩しながら、路傍の雑草と語りあったりしてしまいます。
 わんこが不思議そうに雑草とわたくしを見つめます。
 それもまた楽しみなのです。

 田舎に住んでいますので、田舎のにおいが実にここち良い。
 畑のにおい、海のにおい、豚舎のにおいも実にいい。
 大自然の風を受けながら自転車で走っていると、まったくいい。
 大都会に住んでいる人にはわからないでしょうけれど、生かされていることを最も感じる瞬間でもあります。 
 
 心のリゾート探しをしているような感覚になってしまいます。
 そういえば、中高年の心理学とか、カウンセラー教室ってあまりないように思うのはわたくしだけでしょうか。


 二者択一的な世界でずっと生きてきました。
 文武両道とか言いますし。
 実はわたくしはAかBかとかの二者択一的な考え方が苦手なのです。
 文武は一貫してこそ、全人的な総合力が鍛えられると思ってきました。
 学歴だけで生きていけるほど、単純な世界ではないと経験上思ってきました。
 創造することのできる、「総合力」が最も重要であると。

 「読むことは築くこと 書くことは創ること」
 作家の新田次郎がいつも愛娘の藤原咲子氏に言われていたことです。
 咲子氏は数学者の藤原正彦先生の妹さんです。
 言葉の発達が遅く、新田次郎氏は、咲子氏が高校生になるまで、作文を指導して、言葉の発達を心がけてこられてきました。
 母上は、「流れる星は生きている」を書かれた藤原てい氏。
 
 実は最近ラジオ深夜便という雑誌で、咲子氏のエッセーを読み、どんなに母上との葛藤があったかを書かれておって、是非咲子氏の本を読みたいと思っていました。それが今日、かなったのです。
 「父への恋文」という単行本でした。 
 読書体験の乏しいわたくしでも、この本には感動しました。 
 いろいろな生き方があるものです。
 あの満州からの引き上げをしてこられた藤原てい氏の子供たちですら、いろいろな生き方があったわけです。


 
 ユングは言います。
 「生き方は一つではない」と。

 社会的に成功しておられる人ほど生き方は一つと仰る。あるいは血脈・家柄にこだわったりします。わたくしなど、地縁・血縁・家柄・学歴等々なにもないのです。まったく無縁の存在。まさに「ただある」だけの存在。

 いろいろな生き方があっていいのに、そう思えないのは、そういう人自身が光を求めておられるから。違いますかな?



 城山三郎という作家がいます。
 ここ数年わたくしなりのテーマで追求してきた方です。
 この方の「大義の末」に衝撃を受けて数年。
 いつかこのBLOGに書いてみたいことの一つです。
 あの太平洋戦争をどう受け止めたのか。
 この年代の方々は、本当に真摯です。
 わたくしの亡父も同じです。
 シベリア抑留を体験してきたからです 

 
  
 今日は静寂な時間を味わいながら、ただただ普通に読書し、普通に草取りをし、普通にジムに行き、普通に紀州犬と散歩をし・・・・という時間を経験しておりました。草取りでは、いちいち雑草のしぶとさに驚き、生命力に感じ入っておりました。

 こういう日もあっていいのですね。
 
 否、こういう平々凡々な過ごし方こそ、わたくしに最もあっている時間です。
 性格的にも。
 能力的にも。
  (^-^)/

 

 
コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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