

月刊高校教育9月号に本校のことを写真付きで取り上げていただきました。全国的な販売網を誇る学事出版様です。約6ページにわたってであります。13日の発売です。ちょっと早く送っていただきました。
ありがたいかぎりであります。全国にむけて紹介をしていただきましたから。
これで、ますます県銚のことを知っていだけるというものであります。
可能な限り各中学校にお配りできればと思います。
この月刊誌の常連執筆者の開智高校校長先生であられる関根 均先生の連載を楽しみにしております。今月号もまた、まさに適切なアドバイスをいただいたように思いました。「発信者としての校長」「校長からのメッセージ」「教育の士」というタイトルが並んでおりました。先生のブログも見させていただきました。なかなかのものであります。上には上がおられる。たいしたものであります。
イノベーションの連続であります。
うらやましい限りであります。
さらに進学実績もかなりのものであります。
斎藤喜博を取り上げておられました。実践人としての斎藤喜博については、不肖わたくしもこれまで40年近く追求してきた教育実践家であります。
勉強になりました。
まさに水滸伝の梁山泊であります。優れた人物は必ずおられる。自分だけが鼻先つんつんで、そっくりかえっていてはならんと自省させていただきました。
今日は今までいろいろ追求してきた自分なりの課題でありますケアのことで、誤解をしていたことに気がつきました。不勉強だったということです。ほんとうに不勉強なことが多いものであります。絶望的な客観的状況と主観的な想い・願い・価値観とのズレがケアの際の苦しみなのだという村田久行先生のご指摘にはっとなったわけです。
本校からは、旧制女学校以来、伝統的に看護系・福祉系の学校に進学したり、就職されたりしている卒業生が多いのであります。それで、この方面に非常に興味を持っておりました。そのご縁で勉強をはじめたのですが、まだまだわかっておりません。
上には上があるものであります。
自己満足をしておってはならんということであります。
また天童荒太先生の小説で、実にシニカルな群が存在することも知りました。教育に対してです。ケアの勉強をしていなかったら天童先生の作品に出会うこともなかったでありましょう。ケアの学習の中で教えていただいた作家でありましたから。そして、少年少女の非行問題、家族崩壊、学校の教育問題等々を実に生々しく分析なさっている。これは非常に参考になります。もっともフィクションでありますから、現実にどこかで起きている問題ではありませんが。
懶惰という単語をわたくしはよく使います。福沢諭吉先生が福翁自伝で使われてからずっと自分を戒める単語として記憶してきました。
まさに、懶惰なまま自堕落な生活を送っていてはならないわけです。時間が惜しい。足りません。
前進姿勢のまま、突き進むしかないようです。
坂本龍馬ではありませんが、倒れても前向きのままであります。
また明日!