今日も暑かったですね。
毎日同じことを言っているような気がしますが。これも致し方なし。暑いものは暑いのですからね。それでも、在校生諸君は冷房の効いた教室で補講を、自習をやっていました。これは実にいい。実にいい光景であります。
部活を引退した3年生諸君には特に激励をさせていただいております。むろん口に出していちいち言っていたらこれはうるさいだけですから、そっと心で念じながら廊下を歩くのです。
今日は30日の始業式で配布する資料を作成しておりました。二つほど柱を立てて原稿を作成して、ブログに予約投稿をしておきました。その中に、「背筋をきちんと伸ばそう」のようなことを書いてみました。終わってからいつも行っている私立高校ですばらしい進学校の校長先生のブログに行ってみました。月刊高校教育で連載をされておられる新進気鋭の校長先生です。驚きました。なんとまぁ、同じようなことを書いておられる。タイトルだけは、です。授業の中身も全く違う学校ですから、これは比較する意味がありません。
そして考えたこと。
討論のやり方として、共通問題意識の設定という段階を経ることがあります。ちょっと特殊なやり方かもしれませんが、若いときからロングホームルームの指導法として先輩教師から指導をしていただいた方法であります。ちょっとそれを思い出してしまいました。
共通の認識があるわけです。なんとか在校生諸君のニーズに応えることができる学校でありたいものであります。
ところが、今日は昨日の続きで、認識のあり方ということを考えていて、それも始業式の配付資料に盛り込みました。デカルトの方法序説とかわかりやすく書いてみたつもりです。つまり認識は、経験があって初めて成り立つという主張を紹介させていただいたのですが、そのニーズというのは経験にもとづくものであろうかという疑問がちょっとあるからであります。
誰しも教育については、語ることができるとよく言われます。しかし、それは自己の経験の範疇でしかないわけであります。それが果たして正しいのでしょうか。感覚、直覚、論証とデカルトは分類をしています。
そんなことを書いてみました。
在校生諸君にはちょっと困難かもしれませんが、考えていただきたいことのひとつであります。
ワンパターンが一番安易な方法でありましょう。普段、思いつきでいろいろしゃべっていることの内容が、果たして妥当なのかどうか。認識一つとっても一つではないからです。ほんとうに考えることなしに、わたくしたちは生きることができないようです。
今日もちょっと五木寛之先生の「大河の一滴」を斜め読みしておりました。そしたら、江戸時代のわたくしのような庶民は、寡黙であったのだそうです。うっかりしゃべると、お里が知れるということを警戒していたんだそうです。
なるほどなぁと思いました。
つまらないことをブログに書いておるわたくしも、ちょっとは寡黙になるべきなのでありましょう。
また明日!
毎日同じことを言っているような気がしますが。これも致し方なし。暑いものは暑いのですからね。それでも、在校生諸君は冷房の効いた教室で補講を、自習をやっていました。これは実にいい。実にいい光景であります。
部活を引退した3年生諸君には特に激励をさせていただいております。むろん口に出していちいち言っていたらこれはうるさいだけですから、そっと心で念じながら廊下を歩くのです。
今日は30日の始業式で配布する資料を作成しておりました。二つほど柱を立てて原稿を作成して、ブログに予約投稿をしておきました。その中に、「背筋をきちんと伸ばそう」のようなことを書いてみました。終わってからいつも行っている私立高校ですばらしい進学校の校長先生のブログに行ってみました。月刊高校教育で連載をされておられる新進気鋭の校長先生です。驚きました。なんとまぁ、同じようなことを書いておられる。タイトルだけは、です。授業の中身も全く違う学校ですから、これは比較する意味がありません。
そして考えたこと。
討論のやり方として、共通問題意識の設定という段階を経ることがあります。ちょっと特殊なやり方かもしれませんが、若いときからロングホームルームの指導法として先輩教師から指導をしていただいた方法であります。ちょっとそれを思い出してしまいました。
共通の認識があるわけです。なんとか在校生諸君のニーズに応えることができる学校でありたいものであります。
ところが、今日は昨日の続きで、認識のあり方ということを考えていて、それも始業式の配付資料に盛り込みました。デカルトの方法序説とかわかりやすく書いてみたつもりです。つまり認識は、経験があって初めて成り立つという主張を紹介させていただいたのですが、そのニーズというのは経験にもとづくものであろうかという疑問がちょっとあるからであります。
誰しも教育については、語ることができるとよく言われます。しかし、それは自己の経験の範疇でしかないわけであります。それが果たして正しいのでしょうか。感覚、直覚、論証とデカルトは分類をしています。
そんなことを書いてみました。
在校生諸君にはちょっと困難かもしれませんが、考えていただきたいことのひとつであります。
ワンパターンが一番安易な方法でありましょう。普段、思いつきでいろいろしゃべっていることの内容が、果たして妥当なのかどうか。認識一つとっても一つではないからです。ほんとうに考えることなしに、わたくしたちは生きることができないようです。
今日もちょっと五木寛之先生の「大河の一滴」を斜め読みしておりました。そしたら、江戸時代のわたくしのような庶民は、寡黙であったのだそうです。うっかりしゃべると、お里が知れるということを警戒していたんだそうです。
なるほどなぁと思いました。
つまらないことをブログに書いておるわたくしも、ちょっとは寡黙になるべきなのでありましょう。
また明日!