※↑ 数学の教科書に真っ赤な書き込みがある。
これはすばらしい努力ぶりです。
頑張れ!
頑張れ!
今日も授業を見させていただきました。
英語、数学、保健と見させていただきました。
英語では、この写真のように個別指導。
実に見事なものであります。
個別指導を受けたくて、列をなしておりました。
これが学ぶ姿の最たるものであります。
数学では、先生と生徒が黒板の前で楽しそうに対話。
議論と言ってもいいかもしれません。
これもまた知的な学びの姿であります。
まるでソクラテスの時代を見ているような気がしました。
ギリシア時代には、こういう姿があちこちで見られたとのことです。
保健では、個人的にケアの学習をしておりますので、エイズの講義を聴かせていただたきました。
なかなかのものであります。
これは生きる智慧を教えていただいておるようなものです。
尊い知識です。
学校というのはいわば学習というシステムを扱っているわけです。
それを我が身のものにしない手はありません。どんどん、どんどんそのシステムを持っていってください。断ることはないのですよ。大学がいい例です。大学はそれこそシステムを提供してその存在意義を保っているからです。
もったいないではありませんか。
先生方のコツを、知識をマスターしなくては。
哲学の偉い先生が、いみじくものたもうておりました。
ソクラテスとか、プラトンとか、アリストテレスとか、デカルトとか、カントとか、ベンサムとか、ハイデガーとか、ヤスパースとか・・・・おっとこれは全部わたくしの好きな哲人ばかりでした・・・・東洋哲学では、孔子、孟子、老荘、墨子、荀子等々をこれまで拝読させていただきました。しかしそれは個別の思想体系を、個別に知識として学んでいるだけでは単なる教養でしかない。要するに生きるための方法を学ぶことである、と。
これって、けっこう大事なご発言でありました。
ですからいろいろな生きる上での問題やトラブルをどのようにやり過ごすことができるかという問いの、ある意味での解が用意されているものであります。表層的な現象を追っているのもいいのでしょうが、もっと根本を見つめたまえということです。
コスモスの花は美しい。
脇に咲いているもう一本のコスモスの花も美しい。
そうしたら、二つの花の美しさは、共通しているのか、していないのか。
こんな問いを今日はある生徒に発しました。
科学的には共通しているのかもしれませんが、認識論としては異なってきます。
「美とは何か」とも聞きました。
問答法です。
かなり難しかったようです。しかし、美の追究者でありたいと仮定をするならば、これは避けて通れない道です。理解できなかったら、それは本物の学問をしていないからです。本物の学問をするために、勉強をするということはそういうことなのです。高校時代の勉強をしていないと、学問はできないからです。
ほんとうのところを追求していくのが、学問であります。
そのために基礎的な、基本的な勉強をするわけです。やって当たり前の世界です。
本物の学問をするには、高校時代に勉強をするしかないのですよ。
本物の学問をするには、高校時代に勉強をするしかないのですよ。
おいらは、最初から高度な学問をするから、高校時代の基礎的な勉強はしないとうそぶくようではなりませぬ。そういうのを天才を気取るというのです。天才というのはめったにいないから天才なのですよ。勉強はわたくしのような凡人でもできるのです。ノウハウも確立されています。やるっきゃないのです。ほんとうにもったいないではありませんか。保護者の方々の尊いご努力で、勉強に邁進できるではありませんか。もったいない。本当にもったいない。自分で生活費を稼いで、学費を捻出して生活してきたわたくしだからこそ言っているのです。
だから、今やらずしていつやるのだということになります。
世の中は深い。
学問の世界も深い。
だらだらと生きていると、とうとう何もつかめずに世の中を去っていかなければならないのです。
だから努力するのだとわたくしは思っております。
このことはターミナルケアの体験集を読むと本当にそう思います。終末期医療を受け入れ、なおかつ限りある命を充実させて生ききった方々の尊い努力ぶりに、わたくしは今更ながら感動をしているところです。このことはまた別の機会にいろいろと話してみたいことの一つであります。
このことはターミナルケアの体験集を読むと本当にそう思います。終末期医療を受け入れ、なおかつ限りある命を充実させて生ききった方々の尊い努力ぶりに、わたくしは今更ながら感動をしているところです。このことはまた別の機会にいろいろと話してみたいことの一つであります。
今、言うことができるのは、天才を気取ってはなりませぬということです。
高校生時代というのは、ほんとうに自分が天才に見える時代なんでしょう。
大人のレベルなどたいしたことはないと、たかをくくってしまいがちです。
思いつきの原稿を書いて、全部の弁論大会に出場していたわたくしの高校生時代がまことに恥ずかしい。
なにもわかっていなかったからです。
発言もそうでした。
思いつきで、さしたる論理性もなく、ペラペラしゃべってばかりいました。
文学少年ぶっていたわけです。
そういうのがかっこういいと思っていたフシがあります。
柔道部と文芸部に入っていましたから、まことに両極端。
謙虚に学ぶしかないのです。
余計なことに、こころ煩うことなく、真摯に学びましょう。
わたくしと共に、です。
また明日!