と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

自我ということ

2010年10月21日 23時28分53秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
今日はスポーツ大会でした。
ごくろうさまでした。



今日はちょっと外に出かける仕事がありましたので、在校生諸君の活躍ぶりを拝見することができませんでした。残念無念。


この記事を帰りの特急の中で書いております。テキストベース専門の機械で書いています。たった15センチくらいしかない機械です。実にありがたいものであります。




さて、今日は自我の話。



自我の確立というのは戦後一貫して主張されてきた思想だと思います。

自分を大切にしよう、自分を大事にすることはいいことなのだということです。それはそれでなかなか結構なことですし、大切にしていかなくてはならないことです。


前提が自分を大切にしよう、だから他の人をも大切にしなくてはならないというのが、ヒューマニズムなわけです。しかし、そのかんじんかなめのヒューマニズムが健全に発達してきたのでしょうか。

個人主義は行きすぎて、ミーイズムに陥っている部分もあるような気がしてならないのです。 信じられないような身勝手が蔓延しているような気がします。大人から若者、子どもに至るまで、であります。他人に迷惑をかけていないのだから、何をしてもいいではないかというのはいかがなものか。そのあたりはハーバード大学のサンデル教授の正義論とも密接につながります。

自我を身勝手なまま徹底的に発展させていくと、エゴイズムに陥るのではないかと思っているからです。むろんそうでない場合も十分あり得ますが。


わかりやすく言えば、わたしだけが幸福ならそれでいいのだというわりきり方でもあります。

私的利益の追求になる可能性を持っています。私たちの利益にプラスになる限りは、環境保護もしようという論理につながりかねない。儲かるんならやる、儲からないのならやらない。やりたい人間だけがやればいいのだ、私はやる気がないという論理につながりかねない。人間がエゴイズムを抱えているかぎり、それは永遠の課題であるような気がするのです。


つまり何を言いたいのかといいますと、勉強はエゴイズムの満足だけのために存在するのではないのではないかと思うからです。そのあたりを深く学問として追求する生徒も現れて欲しいものだと思います。年をとったわたくしと、論争でもしてほしいものです。もっとも老いたわたくしは、歯のないクチを開いてふがふが言っているだけでしょうが。


いろいろと考えることは楽しいものであります。

自我ということひとつとっても、無限の思索が可能です。



それは若いうちしかできないのです。

ですから基礎基本をマスターしていただきたいと思います。


老いたる小市民の戯言かもしれませんが。





また明日!

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/