と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

卒業式を終えて(写真追加)

2011年03月05日 21時24分58秒 | 先公ごっこ2008年から2012年





前生徒会長から答辞をいただく。校長の目から大きなビー玉が・・・・・・・


 



現在の生徒会長から送辞


 




保護者の方からお言葉をいただく


 


 


 


式の時は式辞というものを用意するのであります。
しかし、わたくしの場合は、その時々で用意した文面と違う発言をします。
生徒の実態に応じて、カットしたり、解説を付け加えたりします。難しい言葉だろうなぁ、理解できないだろうなぁと思った時には躊躇せずわかりやすく説明をします。まるで緊張していないと言ってもいいのかもしれません。変幻自在、自由闊達。なんでもござれであります。

それは校長からの最後のメッセージだと思っているからであります。


それにつけても、最後のフレーズは声が大きすぎました。「大成功を祈ります」という部分です。マイクが壊れそうでした。気持ちが、気合いが入りすぎました。ほんとうに巣立っていく若人たちに訴えたいことでありましたから。こころから卒業生諸君には、こころの底から成功していただきたいと思っています。もっとも成功の概念規定は違っています。それはそれ。カント先生の言うように、主観の違い。「純粋理性批判」に書かれているとおりであります。すべて承知の上で申し上げています。

なんどか書いていますように、柔道部にも入っていましたが、応援団にも入っていました。ですから、バンカラを絵に描いたような男の子でありました。思えば、かわいい盛りでありました。あんなことで、つまらぬ自己主張をしていたんですから。

太宰治の小説「津軽」に出てくる柔道の主将のタコ君のようだと、同級生の大学教授をやっている男と高校時代笑いあった覚えがあります。太宰の方はたしか、ゴミ箱にアタマをつっこんでいるという自虐ネタだったと記憶しております。わたくしはそんなことやったことありませんが、ね。それにつけても青春時代の思い上がりというか、世間知らずというか、そういう時期というのは本当は成長段階で貴重ではあります。



今日は、前生徒会長からの答辞にぐっときました。
中央壇上で答辞をいただくわけです。

なかなかいい答辞です。
読み方も実にすばらしい。

らに、決定的なのは、だんだん哀調を帯びてくる。迫ってくるものがある。
彼女の表情を見ていました。
彼女の目からきれいな真珠のような大粒の涙が出てまいりました。


実に美しい涙であります。年齢的には孫のような卒業生です。琴線に触れるとはこのようなことであります.


 わたくしのはじわじわではなくビー玉みたいな涙が何個も出てまいりました。感激は、素直に味わうべきであります。純真な涙には、純真なこころが宿ります。



若いということは、本当にすばらしいことであります。



還暦近くして、涙腺が緩んでいるとしても、感動的なことというのは、素直に従うべきであります。教員をやっていてよかったと思う瞬間であります。わたくしですら、そうなのですから、学級担任をなさっている先生、当該の学年主任の先生はもっともっと感動的体験をなさっていたことでありましょう。

生徒達と直接接することができるという点で、実にすばらしい職業であると思います。こういう体験をずっとさせていただきながら、生涯を全うさせていただきそうであります。ありがたいかぎりであります。これから教職を希望なされる大学生の方々に、もしこのブログを見て頂く機会があれば、本当に強く訴えたいことの一つであります。本当にこんなすばらしい職業は無い。是非とも教職を志していただきたいものであります。



卒業生退場の時に、あるクラスが、全員でくるりと保護者席を振り返り「おとうさん、おかあさん、ありがとうございました」と感謝の言葉を全員一斉に発声しました。体育館がわれんばかりの拍手でありました。いい光景であります。映画でも見ているようなシーンでありました。こんな感激の連続があっていいのでしょうか。

自分一人で育ったというような間違った価値観を持っている生徒は皆無であります。感謝することができるということが、人間として最も基礎的な資質であります。そして、無意識の演出というのが最強であります。どこにもディレクターはいなかったのですから。無意識の底の底に、感謝というフレーズがあって人間の人間たる由縁があるのです。哲学的には。

今度もわたくしの目からもっともっと大きなビー玉が、何個も何個も出てきました。もういけません。すばらしい、実にすばらしい体験でありました。




全てが終わった時に、来賓の方々をご案内しながら、保護者席で立ち止まって「おめでとうございます」と挨拶をさせていただきました。

何人かのわたくしの海上中学校時代の教え子たちが保護者席におられました。目で合図を送り、目でお返しをいただきました。こちらもまた感動的な体験でありました。教え子の子弟を卒業式で送ることができたということにも、本当になんらかのご縁を感じた次第です。

いい学校です。
実にいい学校です。

そして来賓の方々と校長室でお話をさせていただいている最中にさらに吉報!

さきほど卒業生を送り出したばかりの3学年主任から「今日わかったのですが、秋田県立大学に1名合格!」との連絡を受けました。良きことが重ね重ねで起きる。これで国公立大学3名になりました。センター試験後の受験で今日の卒業式に参加できなかった卒業生もおりましたので、彼ら彼女らへの大いなるエールになったかと思います。



また来週!




















































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22年度卒業式

2011年03月05日 05時14分13秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

式辞

帰雁の心をよみ侍りける

かへる雁いく雲ゐとも知らねども心ばかりをたぐへてぞやる
                               (千載和歌集 三九)
                                     祝部成仲


 本校を卒業されて北の大地に帰っていく雁のように雲の中を、無限に飛翔し続けるであろう卒業生諸君に、最初におめでとうございますと申し上げます。この和歌のごとく、せめて心だけは共にという感傷にもひたっておりますが、今日を境にする旅立ちを心から祝いたいと思っております。帰る雁のくぐる雲の先には、明るい未来が待っています。そのことを祈念して式辞冒頭の歌とさせていただきます。

 平成十九年度に共学校に移行して、二度目の男女あわせての卒業生を送り出すことになりました。学問への精励、健康体力の向上、人物を磨くというわたくしたち教職員の願いを実現された卒業生諸君を目の前にして、まことに感無量の思いであります。

 このよき日に、来賓ならびに保護者の皆様をお迎えし、ここに千葉県立銚子高等学校第五十七回卒業証書授与式を挙行することができ大変喜ばしく感じております。またその喜びを196名の卒業生の皆さんと共に分かち合いたいと思います。
 来賓ならびに保護者の皆様にはご多忙な中にもかかわらずご臨席をたまわりありがとうございます。壇上からではありますが、厚く御礼申し上げます。

 保護者の皆様、本日はお子様のご卒業まことにおめでとうございます。この三カ年の間、成長していく姿を楽しみに、こころあたたかく育まれ、本日の卒業式を迎えられたこと、お喜びは如何ばかりかと拝察申し上げます。そして、今日までの本校教育へのご理解とご協力に対しまして重ね重ね御礼申し上げます。

 卒業生の皆さん、今日までの努力、精進、頑張りに心から拍手を送ります。ここに集う196名の一人一人がしっかりと積み上げてきた集大成が今日の卒業式であります。


 


(略)



 さて、これまで全校集会などでなんども語りかけてきました。そして、本日、卒業生諸君にわたくしからの最後のメッセージを申し上げたい。
 一番目に「よく考える人間であってください」ということです。思考の肉体化のレベルまで目指してくださいと訴えたい。

 思考というものは、シンプルであればそれなりにいいものではあります。しかし、あまりに単純でありますと、齟齬を来すことになります。よく考えるということが基盤にありませんと,単なる思いつきになってしまいます。つまらない思いつきで世の中を渡ることができるほど、甘くはありません。

 現象にとらわれ、現象だけを追いかけていって、むなしい空虚な人生を送っていただきたくはないと思っているからです。現象の裏にあるもの、あるいはそういうことを思考する自分自身とは何かという尊い問いこそが、これから卒業後に追求すべき課題であると考えます。

 これまでは、受験勉強・就職試験等で多忙であったことでしょう。しかしながら、それは学問への基盤・入り口であって、けっして完成したのではありません。
 
 本物の学問をしてください。知徳体のバランスのとれた人間になってください。大学ばかりではありません。短期大学、専門学校、就職先で充分可能であると思います。意味のある問いを自己に課して、考えることで、充実した生き方をすることができると思っております。

 その際、充分に注意していただきたいことが「無知の知」であります。
 
 決して知ったかぶりをしないこと。自己慢心をしている人ほど気をつけてください。人間の「知」などは、非常に限定された量的には狭い範囲のものでしかありません。あらゆる真理をマスターすることは不可能だからです。ですから謙虚に可能な限り古今東西のあまたの叡智に触れること。そして、そこから考えることが最も求められる「生きる力」であります。

 このあたりをいい加減にしないことです。そして、そこから生涯にわたる学習・自己教育が始まって参ります。

 古代ギリシアの哲学者ソクラテスが言った「無知の知」とはそういうことであったとわくしは解釈しております。もっと言えば、単なる表象的な知識・学問の問題だけではなく、深い生死の問題にまで発言をしております。言わば、死生学の発端でもあったと思っております。

 どのような場所でも、チャンスさえあれば、また意欲さえあれば、可能になることであります。いろいろなことにチャレンジしてください。資格にチャレンジするのもいいことでしょう。しかし、けっしてそれを他人に自慢しないこと。評価されるために生きているのではありません。実力さえあれば、必ず頭角を現すことは可能です。人が放っておきません。履歴のために学問をするのではなく、自己を高めるために生涯実践をしていただきたい。

 県銚で学んだことはまさに生涯学習の入り口であったと思います。

 二つ目に申し上げたいのが、世阿弥の「風姿花伝」の中で、「時分の花」を「まことの花」と峻別していることについてです。

 世阿弥は能役者で、若々しい勢いを持った役者を「時分の花」としています。そのみずみずしい若さで、時流に乗れば多くのファンを持つことでありましょう。それはそれで結構です。

 しかし、世阿弥は、若さだけ、みずみずしさに頼っているだけでは芸の大成は望めないとも言っています。

 結論は、「まことの花」を目指していきなさいということなのです。

 現代の若者文化を見ていると、世阿弥の心配していたことが当たっているかもしれないと感じてしまいます。安易さに流れていってしまっているのではないかと思うのです。「成熟の文化」ということをどこかに置き去りにしてしまったのではないかとも思います。そこには成熟を厭う文化がありはしませんかと思っているのです。軽薄や流行、おもしろおかしさのみを重視するばかりではいかがなものかと考えるからであります。もっと深みを追求していただきたいものであります。

 これからの人生には、苦難もあります。むろん喜びもあります。忍耐の連続である場合もあります。それらはすべて試練の時だと思って、思い切りチャレンジしていただきたい。
 そのようなことも意識してこれからの人生を歩んでいただきたいと思います。

 三番目には、すべからく「自己独自の人であれ」と申し上げたい。今ここに一個の勇気ある人ありと力強く宣言していただきたいと思うのであります。進む行く道を照らし、赤々とした炬火を頭上に掲げて、勇猛邁進していただきたい。
 
 他人の模倣ではない独自性を発揮した人生を送っていただきたいと強く訴えたいと思います。前例がある、ないとか、他の人がやっていないとかそんなことばかりを気にしていたら物事は前進しません。常に他人の目ばかりを気にして、人の陰に隠れていてはなりません。物陰から出でよ、そして勇猛果敢に挑戦をしていただきたい。

 百歩も千歩も前進しましょう。
 あらゆる生き方に、あなた方自身のものがなくてはなりません。習慣や習俗をもって、あるいは悪しき伝統をもって自己を縛ることなかれ。良い意味での、習慣や習俗、伝統を新たに創造していってほしい。

 巧みなる猟師は、山で獲物を追うときに、他人の踏みつけた道は歩みません。人の後は追いません。

 新しき道を歩むことを怖れてはなりませぬ。独立独歩。新しき人になってください。個性ある風格をそなえてください。

 世に立とうとする人は、自己の人格を最高の資本として、決断をしていくしかないのであります。自己の人格を最高の価値として、大切にしながらあるいはその向上を求めて生涯を送るものこそ、本当の意味で最高の人生を送ったと言うことができると思います。
  
 人間は何よりも「人格」であります。人格の代用品はありません。人格の中にこそ、最高の価値があります。多くの友を集め、良き協力者を得て、世に出てください。

 「小聖は山にあり、中聖は里にあり、大聖は陋巷に在り」と言われます。

 私たちは自分一人が清い、他人は俗物にしか見えないと、一人孤高の生き方をして、人から遠ざかって生きていてはなりませぬ。いかなる大人物であっても、自分一人では大事業をなすことはできません。また、他人を見下し、軽蔑するような生き方であっては、結局自分自身が高見の見物をしているだけであって、協力者や友人も味方もいなくなってしまいます。

 どうかこれからの進路で、人のために尽くさずにはおれないような、良好な関係性の中でたくましく生きていっていただきたいと願わずにはおられません。

 大成功を祈ります。

 名残は尽きませんが、以上をもちまして卒業式の式辞といたします。
                                                           
                                                           
 平成二十三年三月五日
                                                           
                                       千葉県立銚子高等学校長 
                                             外山 日出男







【参考文献】
                                                           


 


 



本校図書館にあった「八代集」(有精堂 昭和35年版)に千載和歌集が載っておりました。今日は、この歌のわたくしの拙い通釈もお伝えしますが、さすがにこの記事に載せることは遠慮いたしました。



図書館の蔵書数もそうですが、本校の司書職員にお尋ねしたら、たちどころにこの本を紹介していただきました。冒頭の、和歌はうろ覚えでしたから、文献で基本をしっかりとチェックできたことは非常に幸福なことでありました。


こういうところにも本校教職員の実力があります。


ちなみに大学も、そうです。
図書館の実力度で未来がわかります。


 


 


 


 


 


コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/