・学校というのは・・・・という定義で語られることは、マスコミをはじめとしてかなり多いのであります。納得のいく場合と、その論理はいかがなものかと感じる場合があって微妙に記事にすることは避けます。
・在職中は、これ以上のコメントはしません。されど、なかなか興味ある分野でもあります。
・さて、今日はわたくしにとって真の意味での「先生」あるいは「師匠」とさせていただいた方はどのような方であったろうかということを考えたのであります。
・尊敬させていただいているすぐれた先生であることを、わたくしは教わる前から知っていたというわけではありません。
・それだけの勉強もしていないし、先生の専門的力量をあらかじめ知っているほど学識もない。先生がどうやって勉強をされたかも知らんのです。
・もっと言えば、「受け手」である教わる生徒がどう思うかを問題にしたいのです。だから先生を自分勝手に評価して、教わりたくないとか、拒否しちゃおうというのではいかがなものか。
・それよりも、先生方にくらいついて、どんな先生なのかを吸収することであります。
・能楽に「張良」という作品があります。中国の漢の時代、将軍張良が、若い頃に黄石公という老人から「太公望秘伝の兵法の極意」を授けられる時のエピソードであります。張良は、黄石公から奥義を教わろうと「先生、先生」とお仕えするのです。しかし、この老人なんにも教えてくれません。ある日、街を歩いているとくだんの黄石公先生が馬に乗ってやってくる。張良の前で、ぽろりと左足の沓を落とします。取って履かせよ、とまで言われる。
・別の日に、また街を歩いていると再び先生と出会う。すると先生、今度は両足の沓を落とす。
・この両日とも張良は、先生の命ずるままに沓を履かせます。そして、二度目のその瞬間にすべてを知るのです。
・なんだ?それ・・・・・・と思われるかもしれません。
・先生は年のせいで、どうかしたんだろうかと思うのが現代の学校と生徒の関係性。しかし、この先生は二度同じことをしたのです。もう偶然ではあり得ません。
・いったいこの先生は、こんなことをすることによって何をしたいのかという問いをたてたのが張良なのです。
・つまり先生からの謎かけであったと張良は気がついたというわけです。そう解釈できたということなのです。それがしかも弟子である張良自身だということが重要なのです。なにも先生から教えていただいているわけではないのです。独り合点なのかもしれません。しかしながら、張良はあきらかにCommunicationの本質と極意を同時に会得してしまったのです。
・極意を得たいという姿勢は、待ちの姿勢です。もっと言えば解釈者の姿勢です。受け身と言ってもいい。待ちの姿勢でいる武道家は、絶対に相手の先手をとることはできません。必ず負けてしまいます。相手がなにかをしてから、こちらの行動を起こすから、格段の遅れをもたらす。
・先生は自由自在に行動されている。しかし、弟子の張良は完全に受け身で、まったくなにも気がついていない。縛られているわけです。こうやって負けるという手本であります。
・つまり教わる方の解釈、普段からの素養の磨き方にあるというのがわたくしの言いたいことであるのです。
・そしてこれと思った先生には迫ることであります。教えてもらうのではないのです。あくまで解釈する生徒側に問題の力点があるのです。それを忘れないことであります。
・学校選びの視点として、そんなことを思っていただきたいと思います。
・勉強なさいませ。