と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

大人になるということ

2012年02月15日 22時33分15秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

・本校を志願して下さった中学生のみなさん、ありがとうございました。いまごろ家で自己採点でも終わってほっとしているところですか?


・たくさん受験していただいて感謝します。そして入学したら、いろいろな楽しい体験をしてくださいね。本校ならば、まず最初に「学ぶこと」そのものの方法をお教えしますから。知・徳・体それぞれを総合的にです。それが、本校ならば学ぶことができるのです。学校はそのためにあるのですから。本校は大きく変貌します。共学もそうでした。さらに新校舎建て替えと、防災の学びが導入されます。本校と共に変貌の道程を歩んでいきましょう。そして自分を大きく変えていきましょう。


・本当に学ぶということは、永遠に続くことであって、実に尊い行為です。そしてまたそれは実は大人になっていくという道程でもあるわけです。


・じゃぁ、大人になればなんでも知っているかというとそれはちょっと全面的に肯定するわけにもいきません。そういう人も中にはいるのかもしれませんが。


・子どもから見たら、大人というのは知的水準においても、経験知においてもなんでも、水位差でみたら上位の人間でありましょう。子どもは、それだけのことを知らないのですから、どうあがいても子どもは子どもなわけです。


・わたくしなりに大人というものを考えたときには、大人というのは稼げる人だから大人なのかといったらそうでもない。あるいは定見を持っているから大人なんだというのでもない。またあるいは孤独に耐えられるから大人かという問いには当てはまらないのではないかと思うのであります。


・子どもから、子どもたちの問いに対して、「ある種の答えを持っているとみなされている人間」が、あるいは「あの人はもしかしたら叡智を持っているかもしれない」と思われている人間が大人であるような気がするのです。


・だから謎の多い人ほど、魅力的に見えるのです。これは実に逆説として効果的であります。


・このことは、先生のレベルを目指して、それを追い抜こうとした時がもっとも該当するのでありましょう。師匠を抜いたというときは、あるいは永遠にこないのかもしれません。しかしながら、そのこともまた楽しみでもあります。もう教えることはないというとき。これが免許皆伝というのであると思っています。


・沈黙の多い人が謎が多い?・・・・・違います、違います。逆に、ざっくばらんな人には謎が無い?・・・・これもまた違います。


・たとえばわたくし。このブログで全部をさらけ出しているとよく言われますが、けっしてそんなことはない。わたくしは、いろいろな自分という個性を使いこなしながら、ブログで、記事の中である種の個性を演じているわけです。


・なにを専門として勉強してきたか、あるいは政治とか、哲学者は誰がすきなのかということ、もっと言えば私人としてどういうことを考えているのか(家庭観、結婚観、恋愛観等々)ということは、いっさい明らかにしていません。在職中はそんなことは言えないからです。


・そのあたりは実に慎重に書いています。




(閑話休題)


・小津安二郎の「晩春」という映画があります。この映画は何度も何度も見させていただいた映画です。


・鎌倉は円覚寺の茶会から映画は始まります。曾宮紀子(原節子)が茶会に姿を見せるとぱっとその場がはなやぐ。腰を深く折り、深くお辞儀をしあうそのものごしの美しさ。原節子という女優の動作や、白黒の映画からもたらされるところの深みにすっかりはまってしまいます。


・紀子は、大学教授で長いことやもめ暮らしをしている父親の曾宮周吉(笠智衆)と暮らしています。今、27歳という設定。縁談がたくさんあるが、嫁ぐ気持ちもなく、父と一緒に暮らし、父の面倒を見ていることで満足している。


・父と娘の穏やかで静かな生活が流れていきます。しかし、父の妹のまさ(杉村春子)は、心配で心配でならない。縁談話をけしかけるが、どうしても紀子は言うことをきかない。「わたしがいなくなると、お父さんが困るわ」という論法なわけです。


・思いあまった伯母のまさは、父周吉の再婚話を持ち出して、紀子に迫る。ここから紀子のこころの動揺が画面で描かれていきます。


・しかも、それは能の観劇のシーンです。能「杜若」(カキツバタ)であります。杜若の花の精が、在原業平への道ならぬ思いを舞い踊る。小津監督の深い構成力がここに現れているのです。成就しない思いというものが、現実と能舞台で展開していく。6分30秒もこのシーンは続く。


・精神分析学でエクストラ・コンプレックスというのだそうですが、ま、そのことはここでは触れません。


・京都に、結婚を承諾した紀子を連れて父周吉は晩春の古都を尋ねます。このあたりも実に印象的な京都の風景が淡々と映像として描かれます。


・そして明日は帰るという最後の夜に、また紀子は抵抗をする。「このままにさせといて」と父親に懇願する。周吉は、それをやさしく諄々と諭す。大学教授ならこんな風に諭すのだろうなぁという雰囲気で。


・婚礼の日、姿見の前で紀子が腰をかけている。なんともあでやかな原節子の姿ははっと息を呑むような美しさであります。


・やがて紀子は、父周吉の前に座って、「お父さん、・・・長い間・・・いろいろお世話になりました・・・」と,美しい三つ指をつきながら言う。これがまた実にいい。何がいいって言うと、わたくしもまた娘を送り出した経験を持つ父親であるからです。


・父親の周吉は「ウム・・・・・幸せに・・・・・いい奥さんになるんだよ」と、笠智衆のあの淡々とした風貌で言う。これもまたたまらないほどいい。


・ラストシーンがまたいい。結婚式も、相手の男性も映画には登場してきません。なんと結婚式の後、父周吉はひとりしょんぼりと自宅に帰ってきて、椅子に腰を下ろして、机の前にあったリンゴの皮をむき始める。しかし、いつの間にか父周吉は居眠りを始める。これで終わりなのです。見事な終わり方だと思います。映画評論家はいろいろ言っているようですが。






・さぁ、大人になるということは、こういうことであるのです。そう言ったらわけがわからなくなりますかな?


・老いを受け入れられること、老いを見つめられる、あるいは深層心理における父親(母親)との関係性から自由になること、またあるいは日常的な普通の生活に生きることができるということ・・・・・いろいろと分析可能でありましょう。


・わたくしは、最後の父周吉の姿に真理を見ました。それはなにか。平凡に生きることのできる中にこそ、生きるヒントが、あるいは大人になるということのコツがあるような気がしてならないのであります。



・また次回!


・明日は学校ですよ。


 








 


 


 


 


 


 


 


コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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高齢\(^_^)/