今朝の青木新門先生のHPにこんな事が書いてあった。生涯学習の場に先生が講師として招かれた時の感想である。
>講義の内容や講師の顔ぶれを見るといわゆる知識を学ぶ雑学の場となっている。いまさら何で?と思ってしまう。知識など学び始めたら無限大である。安心より不安が増大する。私は秋を迎えた高齢者の前では知識でなく智慧や永遠を説くべきだと思っている。法然の「一枚起請文」を例にあげるまでもなく、晩年になれば知識などは要らない。日や月を超えた「超日月光」は、阿弥陀如来の別名である。弥陀の誓願不思議に導かれた念仏者は「光陰」に左右されない。正定聚の人は永遠の今を生きているからである。
老年になって生涯学習を自称して学んでいるボキのような無明のヤカラには、ノックアウト級のダイナマイトである。
まさに「雑学」である。知識を学び始めたら無限大であるというご指摘には、非常になるほどと思った。
時間を区切って、大学院とかに学んでもそんなのはスタートに過ぎないとはよく言われたことである。まったくそう思う。
しかも、こっちには時間が残されていない。有限である。いまに棺桶の中に入ってしまうからである。そうなると、生涯学習ごっこを自称してなんかいろいろとやっているボキのようなものは、なにをかいわんやである。
知識よりも智慧や永遠を・・・・と言われるのである。先生は。
ううううううううううううむと唸るしかない。
これからの課題を指し示していただいたような気がするからである。
所詮雑学屋であったからである。しかもかなり初級レベルの。
うううううううううううううううううううううむである。