肩書きなんかにこだわっているとロクなことはないですなぁ~~~~~~~~~
肩書きにこだわる愚というのは、退職して年金で生活するようになってしみじみ感じることである。
タルムードにもあるのだ。「自分の肩書きを人に教えようとする人間は、すでに自分の人格を傷つけている」という言葉が。
これは考えさせられる。確かに、中身がないから、肩書きにこだわるのであろう。もっとも、ボキのように中身も肩書きもナイ人間には笑ってしまう程度のもんであるが。
問題なのは、名刺を渡すときである。肩書きがなんにもないのだから、困ってしまう。いろいろと趣味の話とかするしかない。老人大学に学んでいるときはいい。それでもって自己紹介にはなるからだ。名刺の裏側にはボキも書いてある。趣味の生涯学習ごっこのことを。
表側には、名前とメールアドレスと携帯番号程度しか書いていないが。鎌倉の長谷寺の路傍に立っておられるお地蔵様の写真を印刷してあるけど。しかもご丁寧に「あなた様とのご縁を大切に」と写真の下に書いてあるのだ。だから、なんか宗教関係者だと思われるから愉快である。なんてったって、ヘッドスキンである。僧侶スタイルであるから。
わははっはははっははははっは。
しかし、タルムードの「自分の肩書きを人に教えようとする人間は、すでに自分の人格を傷つけている」の後半部分の「自分の人格を傷つけている」という指摘は、はっとなる。
肩書きを教えただけで、自分の人格を傷つけているというのである。こりゃぁ厳しい。肩書きなんかでもって、オノレを代弁しない方がいいからである。肩書きイコール自分ではない。もっとオノレの尊厳を信じるべきであろう。
ボキだって、人権があるのと一緒である。なにも人権まで否定したわけではない。確かに、能力不足、健康不安でいろいろと挫折ばかりしてきた。負け人生の連続であった。今もそうだけど。
しかし、おかげで世の中を、人間関係を多角的な視点でもって見ることができるようになった。これがありがたい。なぜって、一面的な他者評価は危険極まりないからである。人間は、そもそも多面的に生きているのである。それをである。あいつは極悪人間である、いけすかない人間だとワルクチを言っていれば、関係性は永遠に遠のく。
タルムードを読んでいると、イエスキリストの言葉もここからもってきたのではないかという指摘をする学者もいる。たしかに、キリスト教は、ユダヤ教と同根であるからだ。ユダヤ教イエス派と言っている学者もいるし。成立年代が、いわゆる聖書よりも古いものもあるからだ。
ただし、タルムードは難解である。さらに量が膨大である。それに高い。高いから買えない。買えないから図書館から借りてくるしかない。それでも歯ごたえがある。読みごたえがある。
ま、タルムードを語る資格はないからこれくらいにするが、おもしろいことはおもしろい。
さ、これからwalkingに行ってくる。
体調管理が一番大切であるから。
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