なんでも見てみたい。聞いてみたい。経験してみたい。そして、自分の言葉につなげていきたい。だったら、旅に出るしかない。新年の抱負である。
2018年になった。
今年も、無事に生きていきたいものである。分をわきまえて。
ニンゲンは必ず死ぬ存在だし、そして愚かであるとは、萩野アンナ慶應大学教授の言葉だった。日曜美術館の動画で紹介したブリューゲル10選の中で言っておられた。前回の記事(2017年12月31日)に紹介してある。動画と共に。
今年も同じ事を考えながら生きていくのだろう。まさにブリューゲルの絵に描いてある死を予定している病人の脇に置いてある砂時計である。あの砂時計は、死を予定している。いつか必ず死ぬのが人間であると。
そして、ニンゲンは愚かなのである。欲望まみれで、メリットとかデメリットだけで生きている。どんなにきれい事を言っても、欲と道連れなのだ。愛だの恋だのと言っても、そんなもん所詮愚かな人間の迷言である。
オノレは愚かであるということを自覚して生きてきた。賢くなれないのが宿命であった。悪業三昧というのはそういうことを言っているのである。
高邁な理想とは別世界で生きてきた。他人のワルクチを言い、他人を蹴落とし、オノレのためだけで生きてきた。欲得込みなのであった。
だから、高邁な理想に生きておられる方々に憧憬を感じる。ヘレンケラー然り、マザーテレサ然り。ブッダも、キリストもそうだ。あらゆる哲学者もそうだ。
生涯学習ごっこで、さらに新たな展開を去年は試みた。今年は、またまた新規の展開があるかもしれない。なにしろやることはたくさんあるからである。
たくさんある興味関心から博士論文を書くためと自称して専門を絞りこんだりした。
絞り込みから脱却したい。どうせ挫折した身である。だったら、もっともっと好きなように生きていくつもりである。
範囲を広げていくつもりである。
扱うべき対象を。
それで良かったのではないのかと思う。
旅にも出たい。
海外もである。
興味関心を拡大していきたい。
それが生涯学習ごっこの醍醐味である。
見ることは、言葉につながると思ったからである。旅に出て、なんでも見てやろうではないか。専門もクソもない。比較文化だのとか嘯いて、論文書いてみたいというようなスケベ根性はなくなった。
なんでも見て、聞いて、経験してみたい。言葉につながるからである。新たな言葉を発見していきたい。自分の言葉で考え、表現していきたい。どうせ死ぬのだし、愚かであるからだ。
来月、また旅に出る予定である。予定ではないな。カネは払ったから。今まで行ったこともない土地である。傾向が違ってきている。
タノシミである。それしかやることがないのだし、それはそれでこだわっていきたい分野でもある。
ブリューゲルの絵をヨーロッパに行って見てみたいが、それは今後のタノシミにするけど。ゼニがねぇから。
わはははっはははっははははっはは。