趣味で「ご隠居さん」をやっているけど、これもまた良し。いつまでもゼニゼニゼニで生きていないからだ。権力とも金儲けとも無縁なダメなクソジジイでしかないけど。ボキはそんな程度のできそこないでしゅ~~~(^_^)。
昨今はジジイやババアが元気である。どちらを向いてもアンチエイジングが流行している。元気な方々が、ウオーキングもジム通いもやっている。さらにある。健康志向で食べるものも注意している方々が多い。そんなに若返ってどうすんのかね?って思うんだけれども。あまり若返っても、最後は赤ちゃんになっちまうではないか。
だから現代の長屋横町には「ご隠居さん」がいない。横町はあっても長屋がない。長屋は全部マンションとかいう名前になっちまったのだ。だから、マンションに住んでいるからと言ってあまり威張らない方がいいとボキなんか思ってしまう。
たまに、ご隠居さんがいたとしてもミンナ死ぬのを忘れてしまうほど元気だ。だから、そういう呼び方が消えてしまったような感じがする。あるいは、「ご隠居さん」と呼ばれることに抵抗がある方もおられるのかもしれない。
ボキは違う。「ご隠居さん」と呼ばれたい(^_^)。
この言葉の意味は、広い意味で職務から引退することである。だからあてはまるのだ。
江戸時代は、身分にかかわらず隠居制度があった。庶民にもあった。定年退職とはちょっと違っていた。期限を自分で決められるからである。
隠居すると縁側で日向ぼっこしながら、茶を飲みながらうつらうつらしている。その視線の先には庭があるってぇイメージが強い。ボキなんかも、冬の日だまりをあびながら文庫本を読んだりしている。まさに隠居生活である。庭は30坪しかないから鑑賞に耐えられるほどではない。ただし、家人がいろいろな花を育てているけど。ま、大都会のマンションという長屋生活からは考えられないような生活である。ありがたいこと限りなし。
否、話はそんなことではない。
江戸時代「ご隠居さん」は、現役時代よりも大きく成長した方々が多いということを言いたいのである。隠居になってから、大成功をした方々である。現役時代は、隠居してからの準備期間であったのではないのかと思うような人がいるからである。せっせ・せっせと働いていたのは、隠居後の生活は言わば人生の本番であったのじゃと思わざるを得ない方がいるのだ。ボキも見習いたいと思うケド。
隠居後の生活はゼニのために生きているのではない。いつまでもみっともないではないか。ゼニが欲しくて、全部テメェのためにだけ生きていたら、閻魔大王に叱られてしまいますぜ。還元することだ。世の中に。
現代の仕事人は、定年退職することに暗いイメージしか持っていない。まるっきり人生からも仕事からもリタイアしてしまっている。あとは死ぬだけというのでは、サミシイではないか。
それを救うのが「ご隠居さん」なのである。
昨日の記事で取り上げた野田泉光院という人もそうだ。若い時から着々と準備していた。隠居してからの、2万キロ、六年半にわたる日本大旅行である。しかも徒歩である。江戸時代だから、新幹線もない。飛行機も飛んでいない。歩くしかない。寺院を家督相続させて自分はいなくなっちまう。宮崎から、東北の秋田まで歩いていってしまう。うらやましいような「ご隠居さん」である。
広重もそうだ。彼もまた「ご隠居さん」になってから大活躍した。定火消同心としての半生を全うしてから、隠居後に大画家となったのだ。だから、退職してからの人生の方がホントウの人生だった。
伊能忠敬もそうだ。彼は、九十九里町の生まれである。佐原に婿に入り、婿として成功をおさめて隠居してから江戸に出て年下の師匠に学んだ。それからの活躍はまさに素晴らしい成果であった。これまた、隠居してからの成功事例である。
ボキも年下の大学院の先生に学んだ。実は去年ある大学院大学の学校説明会に参加した。学部が存在しない大学院大学である。修士課程もない。博士課程のみ。しかも国立である。そこで准教授の先生に言われた。年下の先生も多いですけど、大丈夫ですか?って。ボキは、笑った。大丈夫ですよんって。伊能忠敬の話なんかしたら、基地外かと思われるから言わなかったけどねぇ。結局受験しなかった。受験料と入学金がなくて(^_^)。それより家人を説得する方が難しい。今さらなんのために・・・という嘆きが家人にはあるからだ。
しかしながら、引退してもなおかつオノレの仕事にしがみついて、ゼニゼニゼニと守銭奴のように生きるリーダーもどきの方々も多い。いつまでも辞めないヤカラである。死ぬまで代表権にしがみついている方々もいる。会社で組織で権力を振るう以外に楽しみがないからだ。要するに教養がないからである。やることがないからである。仕事以外に。
だったら、現役時代から趣味をやっていくことである。しかも、「ご隠居さん」になってから社会貢献できるような趣味も持っていた方がいい。
趣味こそ我が人生である。
そうなのである。ボキの生涯学習ごっこも趣味であるからだ。
隠居してからますますボキは充実しているからである。塾とか大学で教えることが趣味であるし、素人郷土史の分野でもそうだ。素人ながら充実している。ありがたいものである。オファーがあるだけでも。
やることがたくさんあって。
わははっはははっははははっははははっははははっは。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ