旅人に憧れる。しかし、ボキの場合は徘徊であるから、格好の良いことは言えないですなぁ。歩くことしかできないから。それにしても、「美の旅人」とは良いネーミングですよん。
ここんところ伊集院静大先生の「美の旅人」シリーズを読んでいた。この文庫本は六冊もある。スペインとフランスの二つの国で成り立っている文庫本である。まだ読了していないけど。メモを取りながらだから。
伊集院静大先生のたぐいまれなる文才でもって実に読ませる文庫本になっている。
実は、こちらの方面「も」まったく不勉強であった。今でもよくわからないのだ。
ところが、家人が好きなのである。絵画である。美術館めぐりも大好きなのだ。
年に二回ほど海外旅行をしてきたが、これが困りものであった。なぜなら、家人は必ず美術館をコースに入れてくるからである。そういうコースがないと選ばないのである。
困るのは、美術館に行ってもよくわからないのだ。知識がない。あるわけない。学力劣等であるからだ。それに興味関心がなかった。
美術史なんて、大金持ちのただの趣味だと思っていた。それにしては、家人が好きなのはなぜだ?と思っていた。
要するに喰わず嫌いなのであった。
絵画を見て、そこになんらかの鑑賞法というか、コツというか、法則性を求めるというか・・・そういうものしか考えていなかった。
これじゃぁ、嫌いになっちまう。
それを伊集院静大先生は脱皮させてくれた。オノレが感じたままをそのまま味わっていれば良いのであると書かれていた。
ふううううううううううむ。
それなら浅学非才のボキでもできるではないか。
正解はない。だからである。
ボキが苦慮してきたのは、かの有名なピカソである。ワケがわからんからである。なにが良いのかとずっと思ってきた。理解できない。今でもである。
しかし、伊集院静大先生の文才はボキにあることを気づかせてくれた。それはなにか?
美の旅人というネーミングである。
そうなのだ。
「旅人」であっても良いのである。
うううううううううむ。
これなら、ボキでも出来そうだ。
旅のついでに、絵画を思い出してみるのもできるからだ。現実そうなっているから、むしろこれを積極的に活用してみることだと気がついてしまった。
せっかくヨーロッパに行っても、美術館めぐりを退屈な時間の連続だと思っていたらもったいない。
エルミタージュに行ったときもそうだった。なにがなんだかわからないから、現地ガイドのサンクトペテルブルグ美人の説明を聞いていただけである。日本語がたいへん上手な方であったから、日本語マスターの苦労話を質問したりしていた。ご迷惑だったろうなぁ。
しかし、そんなくだらない話をしていて、もったいないことをしたものである。
なかなか行けないのにである。ご専門の美学史の話をもっと聞くべきであった。
しかし、「美の旅人」とは格好の良い言葉である。これだもの伊集院静大先生はモテるわけである。同世代なのに、ハラが立つ(^_^)。
背も高いしなぁ。
立教大学で野球をやったスポーツマンで、大作家であるから収入も桁違いである。
こんな男が、素敵な寿司屋で旨い日本酒を呑みながら一人静かに過ごしていたら、女性はフラフラとなっちまうだろう。天下の美人女優を奥様にできたというのもわかるような気がする。
ま、ボキには関係のない世界ではある。
なにしろボキは、歩くことだけが仕事だからだ。
わははっははははっははははっは。
(=゜ω゜)ノ