落語は世間知を持っている我々庶民を活写してくれる。それだけでも聞く価値がある。毎日聞いている。楽しいからである。こんな文化を残してくれた先祖たちに感謝である。
落語が好きで毎日聞いている。スマホである。スマホにMP4やMP3で入れてある。ウオーキングの友である。
なにしろ楽しい。笑ってしまうからである。笑いが一番。毎日あはは、おほほ、かかかかっかかと笑っていれば病気も治るというものである。
それに、江戸時代が舞台になっているから歴史の勉強にもなる。こんな愉快な教科書もないもんじゃ。
話を聞きながらイメージを膨らませる。これがいい。つまり聞き手であるボキがナニを感じたか、考えたかというのが大事なのである。
これはある意味美術館で絵画を鑑賞するのと似ている。絵画も鑑賞法とかを意識するようになると面白くもなんともない。
落語も一緒である。落語鑑賞法とか意識しちゃアカン。
見たまま、聞いたままを大事にしたいもんである。そして、参考文献を漁る。そうすると、ますますはまってしまう。それが絵画と落語の共通したボキだけの楽しみ方である。
やはり直接見てみなくちゃわからんことが多い。
美人だってそうではないか。噂には聞いた美貌の人だと思っていても実際見てみないとわからんではないか。極端な例が、タレントである。女優である。と、言ってもボキはそういう方々を直接拝見したことはないが。それに化粧にごまかされて誤解をしてしまうだろう。
わはははっはははっはははっは。
化粧というのはそういうものである。化けるのである。真実のオノレが隠されている。だから良いのである。ウソで固めたオノレである。
もっともボキは化粧をしないから(当たり前だ)、実際どのようなものか分からんが。やる気もないけど。
化粧をして三条大橋を笛吹きながら歩いていたら牛若丸ではないか。向こうから弁慶のような勇ましいのがやってきたら万事休すである。殺されてしまうではないか。
それに、皺だらけのジジイの顔におしろいを塗ったらどうなるのか。皺と皺の間にゴミのように固まってしまって、どうにもならないではないか。
ともかく、落語が好きである。
立川談志が、落語は人間の業の肯定であると言った。それもまた良い。
人間の業を否定し、聖人君子ぶって、さもオノレはエライ人間であるとするのは難しい。そんなことはできない相談である。そもそもオノレの欲望や行動を否定できるわけはない。反省はできるが、否定はできない。
それに他人を批判して、ああいうのは良く無いとかやっている評論家もたくさんいる。今、打鍵しながらパソコンから流れてくるラジオを聞いているが、Oという女性評論家がなにやら政治批判をしている。
またやってやがるとしか思えない。聞き飽きた。論理も破綻している。嫌いだから嫌い、同じ空気を吸いたくもないとか言った某政党の女性党首がいたが、あれと一緒である。庶民をバカにしてはならない。庶民は、見ているのである。真実を。
分かっているのかねぇ。庶民のレベルを。
落語はそんな世間知を持っている庶民を活写してくれる。
だから面白いのである。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ