ジジイになったということは、断絶の憂き身にあうということなのかも知れない。
鷲田清一先生の「真の自立とは」という文章に書いてあったことが、身につまされた。
この文章、実は知らなかった。なんで読んだのかというと、来週バイト先の通信制高校で受講生と一緒に学ぶから教材研究をしていたのである。いろんな場所でバイトしているから、混乱しそうだがまだそれほど惚けていない(^_^)。
そんなことより、この文章である。
「できる、できない」ということの考察をしてくださっている。だが、できることはプラスで、できないことはマイナスだとしていることに疑問を感じているというのが、肝である。
履歴書なんかは、まさにこれだ。学歴や職歴、賞罰、資格なんかを書く。すなわち、自分ができることや、それまで自分がしてきたことの一覧表である。
しかし、鷲田清一先生は、そこに疑問を持つ。
できることの物差しが、実は一面的に過ぎないのではないのかと言っておられるのだ。
できるか、できないかという質問に対して、「ハイ」や「イイエ」で答えられるようなものはいかがなものかと書かれている。
だとしたら、年老いていくことは、そのままできることが少なくなっていくことに他ならない。
当然、年老いていくことを拒否する御仁が現れる。なんとかして、「老い」に抵抗しようとするからである。
ところが、かつては「長老」とか「大老」とか呼ばれた老人がいた。経験値が高くて、周囲に尊敬されていた。
でも、現代の若者はいつまでも大人になれない。なぜなら、できることを基準にした教育課程の中で育っているからである。小学校に入るまえから、大学卒業まで実に長い間自分のできることの内容を問われながら育っている。試験、試験の連続である。大学の上にはさらに大学院まである。
こいつが現代の若者が大人になりきれない遠因であるとのたまわれている。
同感である。
できないことが増えるその都度、我々は負い目を感じる必要があるのだろうか。ボキもできないことは多い。多いけど、そんなのは若い時からそうだ。学校秀才とは無縁の劣等生であったからだ。
だからボキは教育に向いているのである。できない苦しみを十分味わって育ってきたからだ。なぜできないのかということを、長い間考えてきた。古文でも、現代文学でもそうだ。文章の「ことがら」を追っていくのではなく、文章から「形象」を味わうというボキの独特のスタイルもこれでもって確立したのだった。
この詩をどうやって指導するか?
こんな短い詩をである。
雪
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
これを指導できるかできないかということで、教師の力量がわかる。マジにである。あ、もうやめよう。
これ以上打鍵していると、バレル。
オノレの力量の無さが。
わはっはははっはははははっはははっはははっはははっはははっはは。
ヾ(*´∀`*)ノ