人間の欲望には限りがない。銭もほしけりゃ、地位も名誉もほしい、ついでに言えば髪の毛もほしい。まったく無限の迷いである。そりゃそうだ。欲がなければ、生きていこうという意欲もわかない。そもそも意欲という単語が、意識と欲で成り立っているではないかよん。
「終わった人」を読了して、昨日は久しぶりにワクワクしたのじゃよ。なぜか。ボキという人間がいかにアホかということがよくわかったからである。生涯学習ごっこを始めてから、ずいぶん遠回りをしてきた。つまり、成仏していない自分がよくわかったからである。暇であること、社会からもう要らないと言われることへの恐怖、家の中でもそうだったのだ。避けてきたのだ。あるいは逃げてきたのだ。それがよくわかったからである。つまり知らなかったことを知ったということである。
つまり、ボキは終わっていなかったのだ。すくなくとも意識の面では。それを成仏していなかったというのである。
もっともボキは、小説「終わった人」の主人公のようにエリートバンカーでもなんでもない。ただの凡人である。比較対象にはならない。東大も出ていないし、そもそも入りやすい大学しか行ったことがない。通信教育で、修士はとった。でも、そんなもん世間的評価には結びつかない。なおかつ、自慢していたらまるっきりのアホである。
バイトさせていただいてきただけ、幸せであったと思うけど。
価値観が大きく崩れ落ちたのだ。つまり、終わった人である。終わったのであるから、成仏すれば良いだけの話であるからだ。
生前葬をしてもらったではないか。定年で退職して。なにをいまさら、博士がほしいとか、学問の世界で高評価をもらいたいと思っているのだろうかと知った。おおいなる(_ _ )/ハンセイである。だから、ワクワクしていたのである。
謙虚に生きなくちゃアカンですなぁ。よい教えをいただいたもんである。
そして、小説「終わった人」の最後のシーンは、もっと印象的だった。盛岡の川に、サケが帰ってくるのである。子孫を残すために、ありったけの体力と気力と精力を使って上流に上ってくる。そして、サケは死んじゃうのである。
人間だってそうじゃぁないか。
子孫を残して、家を建てて、誰でも墓石の下に安置されていく。
それまでの人生である。
だから充実させていかなくちゃアカンのだったよん。
冗談ではなくて、そのとおりだったのだ。
それにしても、良い小説だった。
アリガタヤ、アリガタヤであった。
今日は、これからドライブレコーダーをつけるためにディーラーに行ってくる。それしか用がない。4時間かかるとのことだったから、帰りは歩いて帰ってくる。途中で、今度新しいスパができたから、そこに寄ってから家に帰ってくるけど。
サケは、スパには寄らないだろうがねぇ。
わははっははっはははっはははっはははっははははっはははっははは。