朝6時の電車に乗って幕張に行っていた。センセ方の研修だった。講師だった。分科会の。10名くらいいた。
夕方の4時過ぎまでやっていた。
安心した。なぜなら、センセ方が実に明るかったからである。積極性もある。人間関係でウジウジと悩むようなキャラにない。そもそも、そういう弱さがあったらセンセなんかできるわけもない。
レポートをあらかじめ提出していたので、一人一人と対話しながらであった。タノシイ研修であった。もっとも、そのレポートはボキが日本にいない間に自宅に来ていたんだけど。
そのつどコメントをしながらであった。
心地よい一日であった。
全員熱心である。
ともすれば、マスコミはセンセたたきをしてはオノレの収入アップをはかっているけど、そんなレベルのセンセはいなかった。
最後に、講評というのをやらされた。おこがましいけど。
何を言ったかというと以下のとおりである。
まず、一番目はセンセ方が実に明るいということである。明るくなければセンセはやれない。第一生徒がついてこない。安心した。こういうセンセに、しかも若いセンセに教わったら人生の活路が開けるではないか。
積極性ということでもセンセ方をほめた。人生に対して覇気がなければ、教育はやっちゃいけないとまで申し上げた。
二番目には、複雑な人間関係の中で、けっして鬱になることなく職業生活を続けていただきたいと申し上げた。教師は、よい子であったから教師になることができたわけである。よく勉強もして、素直に学校生活を送っていたのだろうから教師になれたのだ。しかし、ここに落とし穴がある。「よい子アイデンティティ」の弊害があるからである。極端な悪いこともしないかわりに、天才でもないからである。だから、打たれ弱い。それを心配していると正直に申し上げた。
三番目に申し上げたのは、ゲシュタルトの祈りであった。我は汝のために生きるにあらず、汝も我のために生きるにあらず。汝は汝、我は我。そしてたまにふれあいがあらばそれでよしというようなフレーズである。
タノシイ一日であった。
感謝感激であった。
○ゲシュタルトの祈り
「わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ」
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ」
(原文)
I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.
I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.