昨日は、雨が一日降り続きました。
したがって、趣味の園芸はお休みでした。
金曜日の続きで、草むしり、そしてクレマチスの鉢替えの予定でした。
雨の土曜日、朝から切ないような雨の降りしきる様子を。

(クレマチス・モンタナ系「オドラータ」)
お昼過ぎまで歯科治療があって、それからは久しぶりに読書の時間。
昨日の本棚ではないですが、辻邦生「生きて愛するために」
歯科治療の待合時間で少しだけ読んで、あとの続きを読んで行きました。
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私の好きな随筆です。
5、6年前に読んだ、その読み返しですが、私の心にいくつも響いていきます。
「この一回きりの生を、両腕にひしと抱き、熱烈に、本気で生きなければ、
もうそれは二度と味わうことができないのだ」
いつも現実に日常に流され、まあいいかの毎日では、一回きりの生にやはり申し訳ない。
こんな私にも、一期一会の大切さを、諭すように教えていただいた気がします。
その実、自分の生き様は、そうした想いとは裏腹なことも多くて、泣き笑いの連続です。
いくら粋がっていても、想いが届けば力も抜けて、届かぬ想いにもどかしさも感じて・・・・。
想いが届くようにと必死に頑張ったかどうか、
自分のそんな一回きりの「生」でありたいと思います。
届いてこその「想い」であろうとなかろうと、
誰にも負けない「想い」を胸に抱きつづけたいのです。
その「想い」にこそ、
私の「夢見たもの」、夢、そして、あこがれは、ここにあるのですから・・・・。

(玄関前)
今日読んだところで、とりわけ心に残った部分。
前後のつながりは不要だと思います。
少し長いですが・・・・。
・・・・春ごとに桜も嬉しいが、季節とは別に、いつも咲く心の花がさらに美しい気がする
からだ。禅語で「一花開イテ世界起ル」というが、その語を聞くと、この世が爛漫と咲く
桜に包まれているのが見える。この世がなくなっても、花だけは咲きつづける。そんな
感じさえする。
われわれは日常生活のなかであくせくと生きているが、心の眼を澄ますと、こうした
花盛りのなかにいるのが見えてくる。実は、この世にいるだけで、われわれは美しいも
の、香わしいものに恵まれているのだ。何一つそこに付け加えるものはない。すべて
は満たされている--そう思うと、急に、時計の音がゆっくりと聞こえてくる。万事が
ゆったりと動きはじめる。何か幸せな充実感が心の奥のほうから沸きあがってくる。
もう自分のことをくよくよ考えない。すべてが与えられているのだから、物質的にが
つがつする必要はない。この世に太陽もある。月もある。魂の仲間のような星もある。
信じられないようなよきものに満たされている。雲がある。風がある。夏がきて、秋が
くる。友達がいる。よき妻や子がいる。たのもしい男がいる。優しい女がいる。うまい
酒だってあるではないか。
われわれの胸に時どきそんな充実した静かな幸福感が満ちてくることがある。
「一花開イテ世界起ル」という心持ちが、ふっと胸のなかを横切ってゆく、といったらい
いだろうか。
「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」
という西行の心は、まさしくこうして花や月に幸せな充実感を味わい、死をすら何か美
しいものと受けとっている思いなのである・・・・ (辻邦生『生きて愛するために』)

◇◇◇ 雨の庭
◆ ビオラから。

(道路側、階段)

(階段、踊り場)

(これも踊り場)

(北側石垣壁面・ジャスミンが10年でずいぶん増えました)
◆ チューリップ



(これも原種系?) (けさ4月16日開花)


(チャイナ・タウン) (ヨハン・シュトラウス)
◆ ほかの雨に濡れた植物たち


(原種の薔薇、バラ大好きな方にいただきました) (カンパニュラ)

(クリスマスローズ)

(ハナニラ)

(ペチュニア・スター・キッズ・・・・まだ摘心もできてないうちに)

(牡丹)
◆ そして今日、日曜日の朝、原種のチューリップが咲きました。


(クルシアナ・レディジェーン)