折節の移り変わるこそ

季節の移ろいの中に、感じたままを一日一日。

☆ 一期一会で思ったこと ☆

2006年04月17日 21時03分30秒 | 清明
  
くちなしの花が開いてきました。
私は、この深みのある白が大好きです。

ちょうどハナニラの隣りに鉢を置いています。
これから、くちなしの季節、そしてすぐ初夏になるのでしょうか(シャレではないです)。

※ また、つぶやきが長いですので、まあ、庭の花の写真だけでも、どうぞ・・・・。


        (ハナニラ Spring Star Flower)

◇◇◇

誰だって、自分の歩んで来た道があると思います。
その道も実に多種多様、意識していようといまいと、自分で歩んできた、自分だけの道です。


          (ホスマリエンセ)

私だってそんな道があります。

それは、毎日歩きなれたアスファルトの道。
たまに散歩する自然公園の小道。
まれに迷い込んでしまう見知らぬ道。
自分が迷い込んだんじゃなくて、道の方がこちらへ迷ってきたと思ったら、気が楽?
そんなことないですか・・・・。

こういう、歩くという対象(?)としての実際の道は、とりあえず置いといて・・・・。
今日は、言わば人生(大きく出ました!)という「道」の途中のお話。


   (ラナンキュラス)

◇◇◇

そこでなんですが、「道」と名のつく映画、どんな映画を思い浮かべますか?
私は、この二つだけです。

  ◆ 道 LA STRADA 1954年イタリア 

          監督:フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini

          大力自慢の大道芸人ザンパノと女ジェルソミーナのお話

  ◆ インドへの道 A PASSAGE TO INDIA 1984年イギリス
  
          監督:デヴィッド・リーンDavid Lean

          E.M.フォースター E.M.Forster 原作の映画化です。

いずれも、人生を言わば「道」に見立てたような名画です(あっさりと、映画のお話ではないので・・・・)。


               (牡 丹)

◇◇◇

「道の途中」というと、人それぞれに想いはあろうかと・・・・。
私なら「一期一会」の連想で、「出会い」ということになるのでしょうか。

自分の出会った人は数々あれど、それぞれの人、一人ひとりに対しては、出会いって、たったの一回きりなんですね。
何を当たり前のことをとおっしゃいますな。
その当たり前のことが、私には何だかたいへんなことに思えるのです。

誰だって、生きてきたここまでの道のり、結局、人生ですか、たどってきた道ですね。
そこでは、意識してようと、無意識であろうと、人との出会いは必ずあります。
ある日突然、ばったり出会う、そういう出会いもあれば(ある日突然♪って、私のご幼少の頃の歌!)、そう言えば、もうあの時出会ってたんだと、これは最初は「無意識」⇒そしていつからか「意識しだして」、そういう出会い。
まあ、意識したときが「出会い」と言えなくもないですか・・・・。


     (ネメシア)

いずれにしろ、出会いはすべて、一生に一回切りなんですね。

そんなことない、彼とは(彼女とは)、最初の出会いがあって、一旦途切れて、忘れた頃に街でばったり倒れて×、彼に猛烈にアタックされて、だからもう一度出会いがあって・・・・。
これは、日本語の用法のまちがいでしかないのです。



だから、たった一回切りの「出会い」=「一期一会」
私は、この「一期一会」の精神を、できるだけ意識して、大切にしようと思っています。

私の人生、道の途中で、いつ、どこで、どんな人と出会うかわかりません。
その後の人生に「決定的な」影響を与える人になるかどうかも、わかりません。

たぶん、出会ったときは、そんな意識なんてないことが普通です。
あるいは、ファースト・インプレッションで、ピーンと来ることもありえます。
そのどちらか一方です。


          (チャイナ・タウン)

でも、私には、ここが一番大切なところですが・・・・。
そうして出会ったことで、自分の人生どころか、相手の人生にまで「決定的な」影響を与えることだってありうるということです。
出会いのあとで、どんな展開が待っているか、それは知る由もありません。

それは、たとえば、入学して友との出会い、先生との出会いもあれば、
職場の同僚との出会い、恋人、だんなさん、奥さんとの出会い・・・・。

もっと言えば、銀行窓口での女性行員との出会い(私は別に出会わないですよ)。

あのぉ、落とされましたよと、ポイと捨てたつもりのハンカチが(普通は捨てたりしないですが)、くずかごに入いりきれなくて、それをわざわざ拾ってくれた、脚が2メートルもあろうかというハンサムな若者との出会い。



その出会いが、自分だけでなく、出会った相手に決定的な影響を与えうるということ。
それを考えると、なんだか人生とまでもいかなくて、生活というレベルでさえも、見方によれば出会うことの「喜び」そして「重み」みたいなものを感じてしまいます。


        (ライラック・パーフェクション)

「出会いを大切に」とよく言いますが、私の場合は、次のようなことだと思います。

一度きりの人生で出会う様々な人たち、出会う場面一つひとつに対して、この人との出会いは、最初で最後かもしれない(そんなことがはるかに多いのです)。
ですから、何もむずかしいことはない。
心を尽くしてというか、真心を込めて相対(あいたい)しようと、そうできたら、それでもういいんだと・・・・。


               (フィノーラ)

一度きりの人生を、自分なりに自分らしく生きる。
それは、たとえば、私の場合は、出会いを大切にする姿勢。
そのことで自らが輝いているような、それを他人が認めてくれなくても、独りよがりと言われようと、そんな生き方の方が、よっぽどマシだなと私は思うわけです。
今からでも遅くない、私らしい生き方をして行くことなんだと、静かにそう思います。


  (ヨハン・シュトラウス)            (フィノーラ)

◇◇◇

さだまさしさんの歌に「天までとどけ」があります。

今は昔、身体の具合がよくなかった頃、彼の詩の理屈っぽさが、いやでした。

いまだから言えるのですが、何もさださんの歌が理屈っぽいというのではなくて、調子が悪いときには、どの歌もそう聞こえたんです。

ですけど、この歌はそうではなかった。
出会いの喜びを、感情そのままにすっきりとうたったこの歌、好きなんです。
好きですから、当然、マイクを持ったら・・・・レパートリーに入っています。
少々酔ってても、気分よく歌えます(最後の裏声は出ないので、キーを相当下げて歌い出します)。


       (クレマチス・カートマニー・ジョー)



(una poesia di oggi)

      天までとどけ

 出会いはいつでも 偶然の風の中
 きらめく君 ぼくの前に ゆるやかに立ち止まる
 なつかしい風景に ふたたびめぐり合えた
 そんな気がする 君の胸に はるかな故郷の風

 舞い上がれ 風船のあこがれのように
 二人の明日 天までとどけ
 ようこそ ようこそ 
 ようこそ ぼくの街へ ようこそ この愛へ

 ふれあいのかけらが 人生を変えてゆく
 言葉でなく ものでもない 一つの出会いから
 君さえ許せば ぼくの愛する街が
 胸ときめかせ 君のふるさとに なりたがっている

 舞い上がれ 風船のあこがれのように
 二人の明日 天までとどけ

 舞い上がれ 風船のあこがれのように
 二人の愛 天までとどけ
 ようこそ ありがとう
 ようこそ ぼくの街へ ようこそ この愛へ


          (クレマチス・オドラータ)
コメント (24)
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