今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

小机城と”道潅以後”の戦国騒乱展

2019年06月16日 | 城巡り

昨日とはうってかわった晴天の日曜、ふらりと出かけたいのだが、気のスポットのあても尽きたので、
3月に鶴見川歩きで河口から新横浜まで歩いた時(→その記事)に次回のお楽しみとしてとっておいた、小机城趾(横浜市港北区)に行くことにした。

言い換えると、新横浜から鶴川までの間の鶴見川中流域は、今後歩く予定はない(退屈そうだから)。
ということで、本日の外出目的は「城巡り」。 

もっとも小机城だけではもの足りないので、少し離れた横浜歴史博物館(横浜市都筑区)で開催中の「”道潅”以後の戦国騒乱」展(7/31まで)も観に行く。

東京メトロと東急東横線を乗り継いで菊名に行き、JR横浜線に乗り換えて、新横浜の1つ先のその名も「小机」で降りる。
駅前から古いまばらな商店街を抜け、ついでに中華料理店で横浜訪問記念に「サンマー麺」を食べる。
サンマー麺は、もやし麺よりはもやしの他に肉やら何やら入って充実し、とろみがあるのが特徴(だから熱くて、舌をヤケドどした)。
ただ、神奈川はなぜか外税方式の店があり、しかもそれを明記していないので注意が必要。 

そこから北に折れて、住宅地の中の道標を見逃さないように注意して、小机城趾麓のその名も「根古屋」という入口に達し、
そこから竹林の中の道を登って、空堀を過ぎ、本丸跡に出る。
あとは土塁や空堀を適当に見て回る。
縄張り内はすべて竹林が育成中で、竹が育てばそれはそれで風情のある散歩道となりそう(写真)。

残ったのは第三京浜で分断された向こうにある櫓台跡でもある小机富士という富士塚。
道標に従って、第三京浜の下をくぐり、急な石段を登って、左に折れて、ベンチのある広場を道なりに通り抜けると、高台の上の駐車場に出てしまった。
これは違うと思ってUターンし、ベンチのある広場から左の斜面に沿って登る道があったので、それを進むと、富士塚の頂上に出た(樹林の中に富士浅間の石碑と三角点標石がある)。
よく見ると、この富士塚は富士山型に盛ってあって、先ほどの”左に折れ”た道脇からも確認できた。
GPSでスマホ地図とにらめっこしながら歩いたので、大きく迷わずにすんだ。

さて駅の方に戻り、途中南の高台にある聖徳太子堂を抜けて山道を歩くと白山神社に下り立ち、
その前が雲松院という曹洞宗の寺で、ここに小机城の城代を勤めていた笠原氏の墓所がある。
小机城趾とセットで訪れるべき所。 
境内の墓地の最奥に笠原氏歴代の墓(宝篋印塔や石仏)が並んでいる〔写真)
寺正面の道を北に進むと小机駅に出る。

そこからJR,横浜市営地下鉄と乗り継いで、「センター北」で降りて、3ヶ月ぶりに横浜歴史博物館に入る(前回→茅ヶ崎城趾訪問の記事
今回は特別展だけを観る。
戦国前期の関東一の名将(勝率は上杉謙信を上回る全戦全勝!)にして、江戸城の生みの親である太田道灌その人については、書籍その他でいろいろ情報があるが、この企画展は、その子孫たちをまとめたもの。
道潅の子孫で戦国末期に活躍した太田三楽斎資正についても知りたかった。
展示は、太田氏を軸にした戦国期(秀吉の小田原征伐まで)の南関東の情勢変化が理解できる流れになっている。 

ちなみに、太田道灌は、横浜にも足跡を残しており、いやそれどころか、横浜市中区日ノ出町付近は昔は”太田郷”という地で、そこが太田氏名字の地であるという。
そしてあの小机城も、文明10年(1478)、長尾景春の乱平定に奔走した道潅に攻め落されたことがある。
ということで、小机城は道潅の戦跡訪問の地でもあった。 

もっとも、道潅の子孫たちは江戸と岩付(さいたま市)に住んだので、横浜とは縁がない。
それでもこの企画展が横浜歴史博物館で開催されたのは、地元横浜の上原家(元太田氏家臣でその後小田原北条氏につく)文書が展示の主たる部分だからということだった。

期間中、講演会や見学ツアーもあるのだが、残念ながら今の私では参加できない。
今晩は、購入したカタログ(1500円)をじっくり読むことにする。