一部ネットで論争になっている、デート代を男がもつべきか、という問題を考えてみる。
まず、この問題の発端として、一般論として「デート代は男がもつべき」である、という社会規範の主張ではなく、「デート代を払うという男気があると嬉しいな」という女心の問題である、ことを押さえておきたい。
ネットでの議論のポイントは、そういう女心は、男女平等・ジェンダーレスという社会規範と矛盾するのではないか、という点である。
これはまさに、社会学と心理学の微妙な齟齬の問題だ。
私の専攻である「社会心理学」の立場としては、両方の主張をなんとか調整したい。
ます行動生物学、すなわち生物行動の進化論的研究によると、生物の♂が♀を交尾に誘う一番の方法は、餌を提供することである(蜘蛛のように最悪の場合、自分がその餌になる)。
すなわち、生物の基本目的である、子孫(遺伝子の複製)を残すために、卵を産まずに遺伝情報だけを提供する♂は、性欲という能動性が必要である一方、卵を産んで遺伝情報に栄養エネルギーを追加する♀は食欲を優先する。
なので、その♀に受け入れてもらうためには、♂は♀の食欲に訴える。
例えば、蚊の研究例だが、♂は♀に餌のプレゼントをし、♀がそれを受け入れて餌にかじりついている間に首尾よく交尾をする。
♂の性欲は、♀の食欲を満たすことで、実現するわけだ。
♂と♀との間には、このような生物学的な非対称性が本来的に存在する。
なので、デートという♂にとっての交尾準備(♀にとっては審査)状態は、♂が♀の食欲を満たす側に立つことを意味しておかしくない。
逆に、♂または♀が割り勘を主張することは、交尾準備状態であることの否定、すなわち性的関係ではなく、「いいお友達でいましょう」状態の提案となる。
デート代を男が全て払おうとするか、割り勘にしようとするかは、相手を♀的存在としているか否かの、個別判断の問題であって、少なくとも、男女平等を旨とする社会規範の問題にする、すなわち個人的感情の問題を社会規範の「べき」論で論じる”べき”でない(イケメンや美女が好きという個人的嗜好の問題は、ルッキズムという社会的差別の問題ではない)。
言い換えると、♂にとって相手の♀が「お友達」でいいなら、割り勘を求めていいし、そうされた♀はそれを自覚すればいいだけ(相手を批判する理由はない)。
逆に、♂がデート代をもとうとしても、♀側にこいつとは交尾の可能性はないと思うなら、割り勘を主張して「お友達」的関係を貫けばいい。
そのつもりがないのに、おごってもらうとすれば、それはずるいといえる(誤ったメッセージを意図的に伝え、結果的に付きまとわれる)。
「女の私にこうしてくれる男がいいな」という個人的感情を、男は女にこうすべきというジェンダー問題に一般化すべきでないし、個人的嗜好を述べただけなら、それを他者が社会規範の視点で批判するのもおかしい。
この手の発言が炎上するのは、個人的嗜好(たとえば付き合いたい男の身長の下限)を本人が必要以上に一般化する愚を犯している場合が多い。
すなわち、ネットでの論争は、この個人的嗜好と社会規範との次元的な”ズレにすぎず、真の議論ではない。
プロ野球のチームでスワローズを私が応援するとして、それをジャイアンツ・ファンから批判されるいわれがないのと同じ。