私の「心の多重過程モデル」におけるシステム3を、今まではマインドフルネスの文脈すなわち仏教における観察(ヴィパッサナー)瞑想との関連で説明してきた。
先日、立川武蔵氏の『ヨーガ※の哲学』(講談社)を読んでいたら、インド(ヒンドゥー)のサーンキャ哲学の基本、プルシャとプラクリティの二元論におけるプルシャが、システム3と関連していることに改めて気づかされた。
※:インドではオの音は長音だけなので、ヨガではなくヨーガが正しい。
「改めて」というのは、元々、システム3はシステム2のような自我機能や思考作用あるいは行為意思のような多彩が機能がなく、ひたすら”観照”のみの単機能として説明してきたのだが、実はこの「観照」という語は、私が学生の時にインド哲学の授業でプルシャの説明として使われた語だった。
すなわちシステム3は元々プルシャ的機能を含意していた(ただしそれを意識したわけではなかった)。
プルシャは、後のウパニシャッド哲学ではアートマン(真我)という概念に置き換わるので、以後アートマンと同一視して扱うが、表層的自我であるシステム2が活動中すなわち覚醒時には作動しないというアートマン(プルシャ)とは、システム2(自我意識)の作動中は抑制されるシステム3と共通性があるのは確かだ。
もちろんシステム3は心理学概念であるから、宗教用語のプルシャ・アートマンとの関連を学術的に論じることはしないが、いわゆる自我意識の奥に控えているさらに奥の心、自我意識とは別個に作動するよりハイレベルの心としてのシステム3を作動させることは、マインドフルネス的説明以上の深い意味があるのだ。
システム3の発動によって、さらに奥の超個的なシステム4の可能性が開かれる。
それらを視野に入れると、科学的心理学※の枠を超えてトランスパーソナル・スピリチュアルレベルの現象として心を論じざるを得ないのだ。
※:システム2の知性を使って、主に心の無自覚過程(システム1)を探求している。
すなわち、経験科学が把握できていない(心理)現象への扉がシステム3に達して開かれる。
それは既存のレベル(システム1・2)のみで生きる在り方から脱することを意味する。
通常の人は、科学的心理学のフィールドであるシステム1・2のみで生きている。
悩み・苦しみもその内部で発生し、その内部で解決しようと苦心する。
その中でシステム3の発動に成功する一部の人たちには、ハイレベルの心の目標が生まれ流ため、低次元のトラブルはトラブルとしての価値がなくなる。
まさにこのシステム2とシステム3の境界が、プルシャ・アートマンという概念が意味をなすか否かの境界になる。