今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

おじさんパーカーと電車内化粧

2024年12月08日 | 生活
「おじさんパーカーがダサい」と評した女性コラムニストに、ホリエモンやひろゆき氏が反論していて、この段階では女性たちの過剰なおじさんバッシング風潮に辟易している私も反論に同調気味だったが、ファッションデザイナーのドン小西氏の「ファッションは景色でもある」という見解に、決定打を打たれた思い。

私が「自分を景色として見る」見解に初めて接したのは、はるか昔(10代の時)、つげ義春の漫画「ほんやら洞のべんさん」だった。
大雪の中であくせくする主人公の漫画家と民宿主人のべんさんの行状について、主人公は「景色の点景としてみたら、さしずめどんな趣なのかしら」と自分たちを振り返ったセリフが、心を打った(つげ作品には、こういう衝撃的なセリフと再三出会う)。
自分の振る舞いを、景色の一部として客観的に評価する視点があることを初めて教えてくれたから。
これは公共的視点、すなわち作法的視点として、当事者個人の視点より社会的で上位に位置するほど。
以来、私も心の奥にいつもこの視点をおいて、公共空間での立ち振る舞いを自己評価するようにしている。

実際自分も街中で(あるいは他者と会う時)パーカーは着ない。
ファッション(を含む社会行動)には社会的なメッセージが付きまとい、意図せずとも公共空間=居合わせた他者たちに対する敬意の有無の表現となるから。
ファッションを含めて”美しい”人がいれば、それだけで風景自体が美しくなり、居合わせたみんながいい気持ちになる。
見ず知らずの居合わせた他者を幸せにする行為は、”善行”に値する。

ただ「おじさんバッシング」に肩入れはしたくないので、別の例を示そう。
女性の電車内の化粧行為。
美しくなることはいいことだが、その過程の行為自体は他者が目を背けたくなるもの(=悪行)。
人前に出るための化粧をしている空間は本人にとって”人前”ではない。
すなわち電車内に居合わせた人たちは全員、その行為によって「お前ら全員人間に値しないから」と宣言されていることになる。
この侮蔑的行為を明らかにマナー違反としているのは名古屋市営地下鉄。
その見識の高さは頼もしい(エスカレータの片側歩行を禁止しているのは個人的にはやりすぎと思うが)。