登山の目的を、より精神的なものへと再構築するため、山岳信仰・修験道に関する書を読み漁り、それらを参考に、”行”としての登山(これを修験道にならって「峰入り」とする)を試みた。
対象としたのは、都内の高尾山(599m)。
装備は普通の登山+α。
まず、山という異界に入る所、すなわち登山口で、山に一礼する。
それに加えて光明真言※を唱え、数珠を手首に巻き、般若心経の手拭いを頭に巻いて、歩き始める。
※光明真言:おん、あぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら、まに、はんどま、じんばら、はらばりたや、うん
山に入り、山の霊気を全身に感じる。
6号路のすぐ入った所に石仏群があり、石塔に刻まれた「洗心」の文字が(右写真)、今まではなんとも思わなかったのに、今回は素直に心に響く。
修験道の山修行である”峰入り”は、「擬死再生」の行である。
なので登山の代わりとしての今回の”峰入り”も、それを目的とする。
峰入り前半の”登り”は、自己が死にゆく過程。
すなわち、ケガレた自己を亡き者にして清める。
「懺悔、懺悔、六根清浄」(ざんげ、ざんげ、ろっこんしょうじょう)と唱えながら山道を登る。
頭で念じるだけでは駄目で、実際に口に出して唱えることでこの念を持続できる。
六根、すなわち眼耳鼻舌身意が、山の清気によって清められる。
山の清気は鼻から肺に入り、さらに動脈を通して全身の細胞に行き渡る。
その一方、下界生活で穢れた自身の気は静脈を通して肺に集められ、吐き出される。
これを繰り返しながら登ることで、高度を増すにつれてますます清くなる山の気にどんどん置き換わる。
稜線に出て、はるか足下に広がる下界を眺める(右写真)。
今、自分は下界とは異なる世界にいるのだ。
空気が汚れていることが見た目でわかるあの下界でずっとうごめいていた自分の生活を、ここ(山の世界)から俯瞰する。
高尾山は山であるほか、薬王院という寺院の境内でもある。
すなわち宗教空間としての聖なる異界でもある。
その異界の入り口である浄心門の扁額には「霊氣満山」とある。
ただし私にとっては山それ自体が聖なる空間(宗教的な霊山でなくても、山はそれ自体で霊山)なので、薬王院の参拝だけ入念にすることはない。
もっとも薬王院的な山頂である奥の院の不動堂では、不動明王の真言を唱える。
ハイカーがこぞって素通りするその奥の浅間神社では、光明真言を唱える(神と仏の区別※は不要)。
※日本人の宗教観からみて不自然な神社本庁的神道には従わない。
ここから山頂までは、歩きも楽なこともあり、懺悔文 (ざんげもん)※を唱えながら歩く。
※懺悔文:我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)、皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)、従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいざんげ)
山頂に達した(右写真)。
だが、最高点の三角点は踏まない(最高点を足げにしない)。
山頂も礼拝の対象だから。
峰入りと登山(ピークハント=山頂狩)の一番の違いがこの点だ。
ここまでの登りで穢れた自分を浄化した。
山頂を礼拝した後、空に向いて、天の気を受ける。
ここでゆっくり休んで、周囲の山々を眺める。
周囲の山々(霊山)からの気も受ける。
山頂は、天地の気の接点であり、死と生の交換点でもある。
そして新たな生のために食物によるエネルギー(穀気)を補給する。
ただし、食事(料理)を楽しむことはしない。
もちろん飲酒もしない。
下界での悦楽は、山に持ち込まない。
山頂を後にして、下山を開始する。
峰入り後半の”下山”は、新しい自分に生まれ変わる過程。
山※という胎内で、自分が誕生し、育くまれていく。
そして自ら胎外に出て下界に戻る。
※山の神は女性
身体的負荷は登りの方が高いが、滑落などの危険性は下りの方が高い(実際の”死”は下りで招きやすい)。
下りは慎重さを最優先するので、意識は視野に集中するため、何も唱えず、無心になる。
ただし瞑想状態にはならず、刻々変化する足下の地面に瞬時に身体を対応させる。
危険箇所を無事過ぎて、傾斜もゆるくなり、下界が近づく頃、
生まれ変わった自分は山の胎内で充分成長したので、下界に戻る決意として、
四弘誓願文(しぐせいがんもん)※を唱えながら歩く。
※四弘誓願文:衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)、煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)、法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
山と下界との境界すなわち下山口に達したら、山に振り返って感謝の念をこめて一礼(光明真言を唱える)。
高尾山は、家族連れで来れるハイキング入門の山だが、このように”行”として”峰入り”することで、今まで味わえなかった充実感を得られる。
修験道を参考にした手前、また山も高尾山だったっため、仏教的色彩が強い”行”になったが、真言や誓願文などは唱えなくてもよいと思う(手拭いも次回からは無地の白手拭いにする)。