今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

18きっぷで通った静岡県

2024年03月16日 | 生活

JRのダイヤ改正(北陸新幹線延伸)初日、”青春18きっぷ”で名古屋から東京まで鈍行で帰省した。

名古屋—豊橋間の快速は従来通りだったが、

豊橋で乗り換える浜松行きは豪華な2人掛けシートになっていた。
豊橋までの快速も2人掛けシートだが、シートのふかふかさが違う。
もちろんこの型の便数は限られるのだろうが。

浜松からの上りは熱海行き(4輌)。
今までは静岡止まり(3輌)ばかりで、熱海まで直行する便はほとんどなかった。
しかも真夏の無冷房・無トイレ車という冷遇(無冷房だから暑い)だったのに。
もちろんトイレも付いている。

 今回のダイヤ改正でJR東海の静岡県(熱海ー豊橋間)に対する態度が変わったようだ。
これを受けて静岡県知事も、リニアに対する態度を軟化して欲しい。


作法のタブーと本質

2024年03月14日 | 作法

※この記事は、2024年3月に閉鎖される私のサイト内の記事の転載です。
作法教室に通っている人に向けた内容です。
人が作法を学ぶ目的と効果について、明確にしたかったのです。


作法を学び始めて、どんどん作法を知ってくると、周囲の人の振る舞いが実は作法にかなったものでないことが目についてくる。
すると、今までなんとも思わなかったのそれらの人に対して、失望感さえもつようになる。
これは作法を学ぶ途上で陥る、一過性の"副作用"である。
※:学んだことで却って不幸になる状態

作法を学ぶのは、自分が天狗になるためではない。
作法を真剣に学ぶ者は、この状態に陥ったら、一刻も早く抜け出さなくてはならない。


作法の最大のタブー

作法の究極の目標ともいうべき、作法が理想とする人間関係のあり方は何か。
逆にいえば、他者に対する作法の最大のタブーは何か。
ただし一定以上の品性を前提とした作法(マナー)の話であって、
道徳(モラル)や法律(ルール)ではないので、”殺人”などの犯罪(ルール違反)レベルの話ではない。

16世紀のイタリアのデッラ・カーサによる作法書『ガラテーオ』
(イタリアの作法の基準となり、今ではイタリア語のgalateoは“礼儀正しさ”という意味になっている)はそれを明確に述べている。

「どんなに相手に敵意をいだいていても、あざ笑うようなことは決してしてはなりません」

すなわち最大のタブーは相手をバカにする(あざ笑う、侮蔑する、嘲る)こと

デッラ・カーサによれば、”怒り”は、少なくとも怒る当事者にとっては正義の怒りであるから、
正当な主張であり、これは不作法ではない。
それに対し、他者を侮蔑することは、悪意以外のなにものでもないという。

「あざ笑うというのは、自分たちの利益とは無関係に、ただその行為が趣味で隣人に恥をかかせようとするわけです」

あざ笑うのは、相手をいためつけるためにやる悪意に満ちた行為であり、そこには(怒りとはちがって)微塵の正義もない。

デッラ・カーサ以上に後世のヨーロッパの作法に影響を与えた同時代のオランダのエラスムスも、
その作法書でこのタブーを次のような言い回しで表現している。

「礼儀正しさとは(中略)他の人の過失を快く許すことにあるのです。」

すなわち、作法を知っていると自認する者が、他人の不作法をあざ笑うとしたら、
その者は作法の枝葉しか知らず、作法の根本がまったく身についていないことを露呈していることになる。

同時代(戦国時代)の日本では、小笠原昨雲という兵法家(礼法家ではない)が著した黎明期の武士道書『諸家評定』でも、
「同輩を嘲(あざけ)ることに、諂(へつら)い・恥をかかせる・遺恨の三つの罪有り」として、
「嘲りは不忠の第一也」としている。
つまり嘲りは武士道として最大のタブーなのだ。

また、侍は、「人を嘲りて理屈をいはんとする時は、恥を取るべき事なるぞ」と、
他者を嘲って優位に立とうとするよりは、むしろ恥を選ぶべきだとも言っている。

たとえば自分の才気煥発に自惚れると、自分の親をも嘲ってしまうことがあるが、
「みづからの賢才なりと慢じて、父母の愚なる事を嘲る事、虚人のことわざなるべし。いかんとなれば、みづからの賢才は、父母のさづけたるにあり」と戒めている。

これで作法の最大のタブーがわかった。
ではその逆の作法の本質は何か。


作法の本質と効果

これは論理的に導出できる。
侮蔑の反対、”表敬”である。

儒教の根本経典の1つで、世界最初(前2世紀)の体系的作法書『礼記』(らいき)の冒頭は「敬せざるなかれ
(敬しないことはあってはならない)で始まる(礼記:曲礼上)。

礼とは敬の表現なのである。
「敬」という心(気持ち)を形に表現することが「礼」という記号体系なのである。

礼記によれば、敬は「誠」であり、「仁」の具現であるという。
※:仁(≒愛)は儒教第一の徳。礼は義に続く第三の徳。

つまり敬は、偽りでない心底の愛に由来する。
「仁者は必ず人を敬す」(荀子:臣道篇)というように、誰に対しても敬する。
つまり礼において人を侮蔑することはありえない。

賢者なれば則ち畏れてこれを敬し、(中略)不肖者(≒愚者)なれば則ち疎んじてこれを敬す」(同上)というように、
礼の世界はとにかく敬す以外に選択肢がなく(親疎の別をつけるのみ)、
愚者をバカにする人間(ネット世界にも散見する)の方が、その行為によって愚者よりも品性において低級な人間ということになる。

ましてや身近な相手なら、上下関係を問わず敬す。
部下に対しては「君、臣を使うにを以てし、臣、君に事うるに忠を以てす」(論語:八佾)と、
忠と礼(=敬)は相互的関係にある(部下の忠を求めながら、部下を敬しない上司はダメ)。
自分の子に対しては「子は親の後なり、敢てせざらんや」(礼記:哀公問)と、
親(無条件の敬の対象)への敬の延長として、わが子を敬する。

では自分自身に対してはどうか。
「身を敬するを大と為す。身は親の枝なり。敢てせざらんや」(同上)として、もちろん敬す。
これは有名な「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という『孝経』の教えにつながる。
親がわが子のピアスやタトゥーを嫌がるのは、わが子の体が傷つくのと同じ痛みを親自身が受けるからだ。

さらに、人だけでなく、「山林川谷丘陵の能く雲を出し風雨を為し怪物を見(あら)はすを皆、神と曰ふ」(礼記:祭法)と、この世の自然までも(神として)敬する。
これは仏教の「草木国土悉皆成仏」(涅槃経)にも通じる。

つまり、自分を含めた世界の全てが敬の対象となる。

人は例外なく敬するのであるから、当然、互いに敬し合うことになる。

たとえば小笠原流礼法の教室では、開始と終了時に教師と生徒は礼(お辞儀)をするのだが、
その際、互いに同じ”双手礼”という深い礼をする。

そもそも作法では敬意の度合いをお辞儀の深さで表現するのだが
教師から生徒への礼と生徒から教師への礼はおなじ深さ=表敬度である。
※:封建時代の礼法では、互いの上下差を礼(お辞儀)の深さの差で表現したが、現代の小笠原流では、人に対する礼は全て”双手礼”で統一し、より浅い礼は部屋に対する礼、より深い礼は神仏に対する礼と分けている

つまりここでは自分がされるのと同程度に教師も生徒を敬するのであるから、
生徒の人格を否定するような”パワー・ハラスメント”は発生しない。

それに対し、「お客様は神様です」といって客が絶対的上位者だと誤解させる風潮は、敬を片務的な義務(形式)に堕してしまう。
実際、この言葉があらゆる場面での”客”を不作法にし、(他者を敬せない低レベルの者に)堕落させた。

互いを利するのが”商売”であり、店側と客側は自分が受けた利に対して互いに「ありがとう」と言い合うのが本来のあり方だ。
欧米ではこの相互的表敬ができているのに、礼の伝統のあった日本では客がいばりすぎている。

さて、作法を深く学び、研鑽を積み、自分の価値が自分でもわかるほど向上したとする。
そこで内心、優越感を覚えるのは、人間心理として無理もない。
その時が、作法的には危険なのだ。
「よく実った穂ほど、頭(こうべ)を垂れる」というが、この譬えが”慢心(古くは”我慢”)の戒め”では表層的すぎる。
自重によって頭を垂れるのではなく、相手への誠なる敬意によって頭を下げるのが正しい礼なのだ。
敬の伴わないお辞儀は、人前での単なる前屈運動にすぎない。

この世のあらゆる存在者(他者、自己、その他一切)が敬するに値することを認めたら、
つまり自分の存在が敬に満ちたものに囲まれているなら、それはこのうえなくすばらしい世界に住んでいることになるわけで、幸せなことではないか。
そう、作法をやれば幸せになるのだ。
言い換えれば、副作用状態の人はくだらない世界に生きていて不幸の中にある。

このような心の変化(礼の人徳化)こそ、作法をやる目的・効果に値する。
なのに、現実の作法の社会にいると、作法の知識だけ増えて、人徳が却って低下する人(口うるさいだけのイヤな奴)を散見するので、あえて記した。
※:この副作用は既に『礼記』(経解)で「礼の失は煩(口うるさい)」と指摘されている。


最後に弁解を少々。
作法書は、不作法な様態を活き活き描くために、例示する不作法者に対してユーモアまじりの侮蔑的な表現をせざるをえない時がある。
これは、特定の個人・団体を侮蔑しているのではなく、不作法の具体例としての言葉のアヤとして御容赦願いたい。
実際、作法書の著者なら、そのような記述は、私はもちろんのこと、デッラ・カーサもエラスムスも、孔子様までもが逃れられなかった。


引用文献

●デッラ・カーサ.G (池田廉訳)『ガラテーオ―よいたしなみの本―』 春秋社
●エラスムス.D (中城進訳) 『子供の礼儀作法についての覚書』(「エラスムス教育論」所収) 二瓶社
●小笠原昨雲 (古川哲史監修 魚住孝至編、羽賀久人校注)『諸家評定』 新人物往来社
●他に『礼記』『論語』『荀子』『孝経』『涅槃経』


高浜に瓦を見に行く

2024年03月13日 | 名古屋周辺

愛知県高浜市といえば?…、

「三州瓦」と出てきたならご名答。

愛知県は全国有数の焼き物の産地で、例えば他県の有田や益子など県内の特定地域が産地ではなく、
愛知では県内に産地が分散して、それぞれ別種の焼き物製品を製造し、
しかも全国あるいは世界的に有名で、現代の産業にも結びついている。

前回の名古屋のリタケの次に訪れるのは、細い衣浦湾を挟んで尾張知多の半田と向かい合う西三河の高浜。

ここはブランド化している”三州瓦”、すなわち三河の瓦の産地で、今や瓦のシェアが全国一となっている。

すなわちここも”物作り愛知”の一角をなす地で、観光地としては有名でないが、
物作り(製造業)の里として訪問するに値すると思った。


名鉄で知立で碧南行きに乗り換え、高浜港(みなと)で降りる。

無人駅ながら駅舎の屋根も瓦で、観光用の「鬼みち」に沿って進む(案内パンフはすでにノリタケの森で入手していた)。
まずはニコニコ鬼広場で、巨大な鬼瓦の出迎えを受ける。

普通の屋根瓦(桟瓦)は、今は機械生産だが、鬼瓦は職人による手作業で、美術品の域に達しているという。
道沿いの民家も路面も瓦の材料を使っていて、それらを眺めながら、市のやきものの里かわら美術館に達する(無料)。
※:図書館を含んだ新しい建物で、地元の案内図にはこれとは別に市の郷土博物館が載っているが、そちらは閉館して、もぬけのカラだった。
ここで瓦のそのものの歴史と種類・製法を学ぶ。
そして三州瓦の芸術的な域に達した鬼瓦なども展示されている(写真)。

産業としての三州瓦が確立したのは江戸末期で、ここの土が瓦に適していたのと、衣浦港から瓦の一大消費地である江戸に船で大量に運べたのが、三州瓦が盛んになった理由という。

そもそも江戸では将軍吉宗が防火のために屋根を瓦葺きにすることを奨励していた。
そう、瓦は、それまで民家に使われていた植物製(木の皮や茅)の屋根と違って、
防水性と耐火性に優れていて、あっという間に江戸の町に普及した。
衣浦湾対岸の半田の酢(ミツカン)が江戸で”握り寿司”を誕生させたように、
ここも江戸と船でつながっていた。

私は、地震防災の見地から瓦屋根に批判的だったが(→記事)、
より頻度の高い災害である火災や豪雨に対して瓦が優れているのは認める。

また、今の瓦葺きは、銅線で瓦を結んでいるため、
地震や強風で瓦がバラバラとめくれたり、落ちたりはしないらしい。
ショップで購入した本『三州瓦と高浜いま・むかし』には、
「瓦葺き建物は地震で倒壊しやすいという誤解」と記されている
(これについて客観的なデータがないので論評しない)

美術館奥の公園は瓦素材のオブジェに満ちていて、
その奥の観音寺には、瓦素材の8mの観音像が立っている(写真)。
境内の特定地点に立つと、この観音様と目が合うというのだが、
その地点に立つと今では繁茂した木の枝が視線を遮っている(撮影位置はそこから少しずれている)

さらに「鬼みち」を進み、寺や民家の軒先にも瓦素材の人形などが置かれているのを楽しむ。
新しい住宅も、現代風のカラフルな瓦屋根になっている。

さらに北上して、地元鎮守の春日神社の境内に入る。
神社の奥の大山緑地に瓦素材の5mのタヌキ像があり、
また園内のあちこちに瓦素材が使われていて、市民が植えた植樹の札も桟瓦が使われている。

このように高浜では瓦に対する認識を新たにし、瓦(素材)の可能性を実感した。


三河高浜駅から、名鉄線に乗って、知立(ちりゅう)で下車して、
知立市歴史民俗資料館(無料)に立ち寄り
(旧東海道の宿場だったのでその展示が中心)、
さらに地元鎮守の知立神社に参拝。
神仏混交だった江戸時代には神社には神宮寺が併設されていて、
その神宮寺の立派な多宝塔が現存している(写真)。
党内の本尊は他の寺に預けたそうだ。

知立は大きな山車が出る祭りが有名なようで(国指定重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産)、街中を歩くと、その山車の大きな倉庫に出くわす。


そういえば、愛知には旧東海道が走っていて、その宿場だった所も結構昔の雰囲気が残っている(知立はそれほどでもないが)。
それらを訪れるのもいい。


東日本大震災13年目に思う

2024年03月11日 | 東日本大震災関連

東日本大震災から13年目を迎えた。

13年前の14時46分頃は、私は東京宅の近くのレンタルDVD店内で震度5強を初めて経験した(商品が床に散乱)。

その後数年間は東京での慰霊祭に行ったが、今年は勤務先で会議のため愛知の職場に戻る。
その時刻に研究室で黙祷した。

福島・宮城・岩手の震災遺構に訪れたいと思いながらも実現できずにいる(どうせなら一気に巡りたい)。
なので、せめて、こうして今日くらいは、テレビやラジオと同じく、当地に思いを馳せたい。

震災への思いを新たにすることは、自分たちの防災のためでもある。
「天災は忘れた頃にやってくる」(寺田寅彦)なら、忘れないでおこうじゃないか。

むしろ現実は、復興途中に新たな震災が発生する。
まるで、ゴジラ-1.0だ。

我々は、ひたすら災害からの復興に邁進するしかない。
それは新たな興隆、より安全でより住みよい地にバージョンアップすることだ。


世田谷中心部を歩く

2024年03月10日 | 東京周辺

東京都世田谷区は23区で一番広いので、有名ポイントはいくつか分散しているが(下北沢、自由が丘、二子玉川、三軒茶屋など)
今回は、区立郷土資料館を中心とした世田谷区の中心部まさに地名としての世田谷を歩いた。

主目的は、しばらく休館してリニューアルした郷土資料館で、その地を理解するためにもまずはそこを目指す。

最寄駅は東急世田谷線の上町。
新宿から京王線に乗って上高井戸で世田谷線に乗り換えた。
世田谷線は、上高井戸から三軒茶屋までを結ぶ世田谷の街中だけを走る線。

都電荒川線のように、専用の線路空間を走るが気分は路面電車。
しかもこの路線オリジナルの車両で、小さい二両編成ながら、
座席はロングシートではなく、1人がけ。
ただ椅子の間隔が狭く、私を含む男性は膝を通路側に斜めに出さざるをえない。


上町で降りて(運賃は一律160円で、乗る時にスイカで支払う)、
まずは代官屋敷内の郷土資料館に入る
(新しい施設ながら無料。さすが世田谷は太っ腹)。

約4万年前の旧石器時代からの石器から始まり、石器時代から弥生時代まで、
およそ野川の国分寺崖線沿いの湧水が豊富な台地に人が住んでいたことがわかる。

顔の把手がついている縄文中期(5000年前)の土器(区文化財)が展示されていた(写真)。
世田谷南部の多摩川沿いには古墳が多く、それらの復元模型や副葬品の埴輪類の展示と続く。

中世になると、世田谷の中心部を支配していた吉良(きら)の情報が中心となる。
吉良氏は、三河(愛知県)吉良(吉良町:現在は西尾市に編入)が苗字の地の足利一門で、
その庶流が武蔵の瀬田郷を支配していた(忠臣蔵の吉良上野介は、吉良本家筋)。

戦国期になると小田原北条氏が進出してきて、氏康弟の北条幻庵が吉良氏に嫁いだ娘に宛てた作法心得の文書は、
武家礼法の視点でも貴重な資料(小田原北条氏は、伊勢・小笠原・今川の三礼式家と全て関わりがある)
とりあえずデジカメで全文を撮ったが、誰か翻刻してくれていないだろうか
(当館発行の資料や世田谷区史の資料を探してみたが、見当たらなかった)。

郷土資料館の隣にあるのは重要文化財の代官屋敷で、
彦根藩世田谷領の代官を勤めた大場家の屋敷であった(大場家は敷地に現存)。


代官屋敷の前の通りは、世田谷ボロ市の通りで、そこを突き抜けて北上すると、
寺が2つ並んで、左は真言宗、右は大吉寺という浄土宗の寺。
その大吉寺に、江戸時代の故実家・伊勢貞丈の墓があるという。
※:室町時代の礼式家伊勢氏の末裔
伊勢貞丈といえば、『貞丈雑記』という作法の百科全書の作者で、
武家礼法などの日本の作法を勉強するならまず最初に読むべき本(平凡社の東洋文庫に全4巻で出ている)。
なので、武家礼法を嗜んでいる私が彼の墓を素通りするわけにいかない。

本堂前にある貞丈墓の説明板の QRコードをスマホで開くと、
貞丈の墓の写真が出た。
その墓の姿を頼りに、本堂裏の墓地内を探し、
本堂裏正面の少し奥に傘があるキノコ型の墓を見つけた(写真)。
花も線香もないが、合掌して、感謝の意を示した。


ここからマップのナビを使って、吉良家墓所に行く。
この世田谷の地に来たのだから、その主・吉良家に挨拶したい。

Googleマップでは「吉良家墓所」としか載っていないが、
そこは勝光院(曹洞宗)という立派な寺で(写真)、
吉良家の菩提寺である(書院が区の文化財になっている)。

ここから世田谷線の線路を越えて、豪徳寺の参道入口を右に曲がって、
公園状になっている世田谷城跡に達する。

城跡といっても、吉良家の館(豪徳寺)の端っこの堀や廓のある部分。
それらの縄張り地形は残っているが、公園として通路が整備されているので(堀両側の整った石垣は公園整備用に構築したもの)、山城巡りのようにはいかない。


来た道を戻って豪徳寺の境内に入る。
ここは江戸時代の井伊家の墓所が有名だが、上記したように元は吉良家の館跡。

ただ参拝者は井伊直弼の墓参に来るのではなく、
もっぱら”招き猫”を見にくる(外国人も多い。掛けてある絵馬は中国語だらけ)。
参拝者のほとんどは、招き猫の本尊である観音堂に参拝し、その周囲にずらりと置いてある招き猫の人形の前で写真を撮り(写真)、庫裡で招き猫の人形を求める行列に加わる。

ここの本尊は、我が菩提寺・目黒の五百羅漢寺のずらりと並んだ羅漢像の作者だった。

私は行列には加わらず、寺を出て西に向かって、この地の鎮守・世田谷八幡(なるほど清和源氏の氏神)に参拝する。

かように世田谷は、吉良氏の地であり、それが井伊家に引き継がれた場所だった。


無自覚症状の健康管理

2024年03月09日 | 健康

漫画・アニメ業界での思わぬ訃報が続いているが、
いずれも60歳代(平均寿命以下)で、結構急死に近い。

まずこの業界の人は自営業だから、職場の健康診断がないため、
自発的に検診を受ける能動性が必要。

でも、仕事が忙しく、しかもどこにも自覚症状がないと、
あえてクリニックに足を運ぶ気持ちにならないだろう。

それが怖い、命取りになる。
我慢できないくらいの症状に見舞われた時は、もう手遅れなのだ。

さらに職場の健康診断だけで安心というわけでもない。

命や生活に関わるが自覚症状のない病気があり、最低限それらを定期的にチェックしよう。

まず、肺のレントゲン、血液による血糖値や肝臓機能、尿による腎臓機能は、
年一回の健康診断でOK
※:肺がんのチェックをきちんとしたい場合はこれでは足りない(進行が速いから)。


年一回で足りないのは、まずは血圧
これは自宅で、週一回は測定する(手首の簡易なタイプでOK)。
高血圧は自覚できないので、こうやって測って知るしかない(全てにおいて、計測が基本)。
これを怠って放置すると、いずれ脳か心臓の血管が破れる(該当例に事欠かない)。


次に半年に一度の頻度で、歯医者に行く(近所に複数あるでしょ)。
虫歯でなければ用はない、というのは子供時代の話。

いい歳になり、これからも自分の歯で食事をしたいなら、
半年ごとに歯石を除去しに行き、歯周病のチェックもしてもらう。

歯石は自宅の歯ブラシでは落ちないので、放置すると溜まる一方。
ある年、半年後に行かずに、1年ぶりに行ったら、
歯のエナメル部分(特に表側)にはついていなかったが(見た目には問題なし)、
歯茎(特に裏側)に歯石がぎっしりついていた。

歯石は細菌の巣であり、これが歯茎に溜まると歯周病となる。
無自覚の歯周病は、歯茎を弱くするだけでなく、全身の病につながる(梗塞や糖尿病など)。
言い換えると、近所に複数ある歯医者(デンダル・クリニック)から”かかりつけ”を選ぶのに、こういう基礎的ケアに対する取り組み姿勢を確認するといい。

私は昨日で春のチェックが終わったので、次は半年後だ。
その間の日常のケアは、歯ブラシによる歯磨き以外に、
歯間ブラシによる掃除も毎晩欠かさない。
歯茎のマッサージなどは特にしなくていいらしい。


それから私は4ヶ月ごとに眼科に行って、眼圧をチェックしている(目薬で治療中)。
眼圧が高まると緑内障になり、
緑内障は失明をもたらす。

最近はテレビCMで眼圧チェックが勧められている。
眼圧もまったく自覚症状がないので、私もお勧めする。
視野欠損の自覚症状が出た時は緑内障が進行した結果で手遅れ。

ついでに日常でも眼圧が高くなる状態を避けること。
うつ伏せ寝、眼球のマッサージ、そして床屋での前屈み姿勢の洗髪など。
私の散髪は美容室なので洗髪は仰向け姿勢。
なお、蒸しタオルなどで目を温めるのは良いそうだ。


毎年でなく数年に一度でいいのは、大腸内視鏡検査
胃は健康診断でもレントゲンをバシバシ撮る検診があるが、
私はそれをしないで(不要にX線を浴びない)、クリニックで胃カメラを呑む。
胃カメラはそれなりに辛いが、通路となる食道も検査されるので、
胃がんだけでなく食道がんのチェックにもなる。

大腸の内視鏡は、それ自体は辛くないが、数日前から準備として大腸内を空にすることが必要。
でも大腸がんの元であるポリープをその場で切除されるので受け甲斐がある。

これらの”がん”もごく初期は自覚症状がないし、検査の段階で処置される(しかも居住自治体によっては高齢者は無料)。

自分が運転する車も、二年に一回は車検はもちろん年に一回は定期点検をしているし、
車のキーを入れた段階でいつもチェック項目が表示される。
自分の体も、毎日の自覚点検以外にすべきことがあるわけだ。


山根キクの紹介

2024年03月08日 | 身内

※このページは、2024年3月で閉鎖される山根一郎のサイト内の内容の一部を転載したもの。

青森の「キリストの墓」の話題で必ず登場する「山根キク」(菊子)は私の祖母だ。

青森キリスト墓訪問記

いわゆる”超古代史モノ”は門外漢の私だが、この手の話題(「と」(とんでも)の世界)には祖母が登場するので、
近親者として情報提供できればと思った。

祖母の話を親族の中では直接一番多く聞いていたという父・克己(キクの三男)が亡くなって、
父から聞いた祖母の話も私自身はうろ覚えにすぎない。
私の周辺に残る情報をここに残しておく。
※私はWikipediaの「山根キク」の項の作成には、まったく関与していない


●生い立ち

明治26年(1893)6月1日 山口県萩の醤油造り屋の長女に生まれる.
父方は萩沖の櫃島,母は萩沖の大島出身.
父猪之助の影響で三味線をたしなむ。

8歳の時,実母ウメが死亡し,以来父は生きる気力をなくし,数年後に祖父母より先に病死する.

14歳の時,キリスト教に触れ,惹かれるが,祖父の猛反対にあう.

修繕女学校卒業後,自らの意思で横浜の共立女子神学校に入学.
しかし,卒業式(大正4年)での儀式中にイエスの生涯・復活への疑義を発して式を混乱さす.
この疑問は後に竹内文献によってキクにとっては氷解する.

封建的風土の萩には戻らず,上京して四谷と牛込に日曜学校を開設.
キリスト教(プロテスタント)の伝道に従事.

男兄弟なしの長女であるため,大正9年2歳下の寺島某氏※と入夫結婚.
※某氏の父鎌田造酒之助(みきのすけ)は旗本幕臣として,函館五稜郭まで行って最後まで新政府軍と戦った。その後は駿府(静岡市)に住み、臨済寺に東軍(幕軍)を顕彰する碑(現存)を立てた(→造酒之助の記事)。私には幕臣の血も流れている。

私の父を含む四男をもうけるが,長州人と幕臣の家系とでは合うはずもなく,
喧嘩をすれば幕臣が刀を抜き,長州が薙刀をかまえるというすさまじさ.
やがて離婚して,4子とも引き取って育てる(妹たちも東京に呼び寄せる).

この体験のためか,後に寡婦の窮状を打開するため,「日本婦人相愛会」の名のもとに派出婦会(家政婦紹介)を設立.

「萬朝報」の婦人部長となる.

そして宗教よりもまずは政治によって,実社会での女性の救済をすべきとの考えに到り,政治活動に転換.

その頃世情を動かしていた「普通選挙」運動そのものを、男だけに選挙権を与える不平等として,
「婦人参政同盟」に参加。
また「婦人参政協会」を設立して,婦人参政権運動に加わる
「女性の時代」という月刊誌を発刊.
革新倶楽部に入会.

この一連の女性運動こそ、祖母の活動として私が最も評価したいもの。


女性運動参加記録:「日本女性運動資料集成」(1-3巻)不二出版より

女子参政協会を主催

1923(大12)
2 /17:婦人参政同盟の政談演説会(神田中央仏教会館)にて飛び入り演説
「皆さま,お待ちなさい.私の言うことも聞いて,相携えて世論政治の第一線に入ろうじゃありませんか」
3 /31:夫婦で婦人参政問題演説会を牛込会館にて主催
7 / 2:日露婦人交驩会の発起人または賛成者の一人となる
11/10: 関東罹災者救護会として,「病者と失職の婦人の為に」震災被害者の救援活動

1924(大13)
4月:第一回総選挙にて,長野県の井手氏に応援演説の遊説.好評なるも落選.
6 /27:婦人参政同盟の理事に当選
12/ 6:婦人参政権獲得期成同盟創立委員となる
12/21:民衆公論社主催の擬国会(芝協調会館).「文部大臣」「拓植大臣」に.夫が議長.

1925(大14)
2 /14:婦人参政同盟第五回大演説会(築地同志会館)にて演説
4 / 4 : 同第六回大演説会(横浜市キリスト教青年会館)にて演説
5 / 6:着任したソ連のコップ大使を訪問
9 /27:同盟の大阪支部発会を兼ねた演説会(天王寺公会堂)にて演説
11/13:三男(一郎父)を出産
12/16:婦人参政同盟第八回演説会(神田中央仏教会館)にて演説

1926(大15)
3 /9:婦人参政同盟第九回演説会(芝協調会館)にて演説
3/22:議会に婦人案提出に応じて,ビラを配付用意するも警察の禁止によって不可
    婦人案(治安警察法改正案,婦人参政に関する建議案,市制町村制中改正法律案)

1927(昭2)
1/5:主催する日本婦人共愛会の四谷寺町の本部でクリスマス児童慰安会を開く(朝日新聞記事)
11/20:女子参政協会(山根菊子代表)は婦人参政同盟から脱会
このあたりのいきさつは不明.
4人の子をかかえての離婚という最大の辛苦の時期でもある.

1928(昭3)
2/12:西岡竹次郎氏の選挙応援で演説(朝日新聞記事。掲載日)


転機

昭和に入って,青森北津軽の小泊に滞在中,日本の悠久の歴史を感得
(ちなみに小泊は徐福伝説や東日流外三郡誌とも無縁でない)。
そして政治運動から再び宗教への還帰が始まるのだが,戻る先はキリスト教ではなかった.

1935(昭10)
天津教の竹内巨麿氏及び「竹内文献」に出会い,長年のイエスの生涯についての疑問が氷解.
この文献を信じた結果,ウルトラ天皇主義になる.
青森戸来村(現:新郷村)の「キリストの墓」近辺を調査して,1937年にその存在を世に出す
(地元ではさっそく観光資源としてアピール.現在に至る).

1943(昭18):長野県豊野に滞在中,不敬罪のかどで群馬県特高によって逮捕
当時は「太古研究会」代表.
婦人運動の同志(同罪逮捕)から,昭和天皇の出生にまつわる噂話を聞き,それを元海軍中尉に話したため.
さらに,熱田神宮のご神体に関する噂,および伊勢神宮のご神体にある文字の噂
(『世界の正史』に記述)を豊橋で数名に話したかど.
こんな噂話を私的に話しただけで不敬罪で逮捕されるのだから恐ろしい時代だった.

戦後は,東京一区から第一回普選に国民協同党から立候補するも,落選.
新宿戸山町に居を構え,新宿区議を三期勤める.

1965(昭40) 4月23日狭心症発作のため,自宅で急死.享年71歳.

キクは孫の私にとっては優しかったが,直情的で男まさりの性格で,
萩では「真西風(まじにし)」とあだ名されていたという.
幼少よりの深遠なる真理へのあこがれと信念を貫く姿勢(親族とさえも妥協しない)はさすがだ,が….


著作

1.「光は東方より」(日本と世界社)昭和12(1937):「キリストの墓」探訪記

2.上の分冊版「キリストの巻」「釈迦の巻」(日本と世界社)昭和15(1940)

3.「天津祝詞ノ太祝詞事新解」(日本と世界社)昭和17(1942)

4.「キリストは日本で死んでいる」(平和世界社)昭和35(1958):「キリストの墓」再訪記

5.「世界の正史」(世界平和社)昭和39(1964):葺不合(ふきあえず)朝などの歴代天皇の系譜

著書からわかるとおり,キクは「考古学・地質学」とは無縁.
キクを「地質学者」と誤って紹介したのは,私の記憶では,かの寺山修司氏の旅行雑誌上の記事(キクはキリスト塚を発掘したわけではない)
アカデミックな世界とは無縁.あえて肩書きをつけるなら「民間研究家」かなぁ.

著書の最初の1-3は,電子復刻版「古史古伝」(八幡書店)にて入手可能.4「キリストは日本で死んでいる」は「たま書房」より刊行中.5「世界の正史」は現在流通してない。

※なお、キクの著作や写真については、法人・個人を問わず、当方からの貸し出し・譲渡などは一切おことわりしている。
また私はキクの著作権を継承してはいない。


竹内文献とは

竹内文献とは,いわゆる「竹内文書」(偽書とみなす側の表現)のことで、
ウチでは仰々しくも「竹ノ内古文献」と称していた。

茨城県磯原の竹内家には 私の父(キク三男)も子供の時、夏に遊びに行って、
そこの秀才の息子に宿題を全部やってもらっていたという。
そこで熱湯に手を入れる盟神探湯(くがたち)の行をやったという.
また父も信州の戸隠神社にあった神代文字を読めたという.
父は酒が入ると「ヒフミヨイムナヤコト」の唄(歌詞は繰り返し,メロディも単純)を歌った.

キクはどうやらこの文献のみに頼っていたらしい。
その全貌(戦災で消失)は知るよしもないが、なんでも今の太陽は7つ目だという
(人類の祖先が今の地球に着いたのが7つ目の星だったのか??)。

竹内文献を信じたい人は,ちきんとそれ(八幡書房から刊行)を読んでみること.
高校程度の世界史の知識で読むとガクッと力が抜ける箇所があちこちに出てくる.
たとえば,東京が1億年前から「とうきょう」と呼ばれていたという説があったら信じるか(恐竜が名づけた)?
辻褄が合うことが命の「お話」は辻褄の破綻は致命的.
小学校程度の素朴な頭なら信じることができるかも.
作者にも世界史の知識がほしかった(古生物学の知識までは期待しない).

竹内文献私見

竹内文献は,荒唐無稽すぎて,その思想的危険性さえ忘れられがちな書であるが,
まずはその点をきちんと吟味する必要がある.

私見では,日本の軍部が大陸進出の野望をもっている丁度その頃に,
天皇が日本に君臨する論理(+儒教的家父長論理)を拡大して世界統治を正当化する「神話」の提供として,
希代の大ボラ吹きによって創作されたものである(戦前の日本人の倫理感そのまま).

東条英機なんかも竹内家を訪れていたという.
でもさすがに竹内文献の論理は軍部も使えなかった.
むしろ天皇家の系譜を荒唐無稽化するとして,政府から危険思想とみなされ弾圧された.

その大ボラ(悪意のない嘘)吹きは,キクからのキリストの疑問に,
辻褄合わせのストーリーを作って回答したとうかがわれる。
疑問内容を詳しく聞けば,辻褄合わせの回答がしやすくなる.
顕示性性格者のホラとはそういうもの.

ちなみにホラを吹くことは,性格的行動習慣であるため,その人の人格の一部として認めるしかない.
そのような性格傾向の人が存在することをまずは理解しよう.

だから,そんなホラ(非現実だが辻褄は合っている)を信じる人の頭の方が純朴すぎるのだ
(現実を多元的に評価せずに単線的な論理=辻褄を信じるタイプ,
しかも信じられるからではなく,信じたいから信じてしまう).

しかし素朴な当時の国民レベルでは,「五族協和・大東亜共栄圏」という言葉が,
欧米の植民地主義から亜細亜を解放するスローガンとして支持されたように,
竹内文献の神話論理もキクにとっては,世界の民族・宗教対立の無意味さを「論証」できる天啓の書にうつった.

キクはイエスの生涯の記述に根本的疑問を抱いたという点では,かの聖書を批判的に読める距離感をもっていた.
しかし同じ態度で竹内文献に接することができなかった.

世界平和を願う心があまりに素朴で強かったため,学的批判の目が閉じてしまったといえる
(”発掘された”考古学的資料を盲信してはならないということは,今の日本人なら肝に銘じているはず).
私自身は竹内文献の世界観にはまったく興味がないが
(ワタシ的には,ユダヤの失われた支族が青森にやって来たという話にした方が面白い,
そうすればユダヤと当地の習俗の類似点などキクの傍証も活きてくる),

キクという,現実界で辛苦を重ねた明治女性がどのようにその夢想の世界に心を奪われていったか,
個人の精神史には関心がある.

女性の解放(男女平等)という価値観を持ち、現実に男に頼らない生き方を実践しながら、
超越(絶対)的な父性を希求していたのだから。

ある意味、”神の前の平等”を謳うキリスト教と天皇崇拝の合体とも言える(天皇の一神教化)。
言い換えれば、キクの実父も夫も、理想的な父性にはほど遠かった。

参考文献:長峯波山「竹内巨麿伝」八幡書店


信じる人と信じさせる人

私がキクと竹内文献との関係を醒めた目で見れるのには理由がある。

実は私の母方に,10代で統合失調症(精神分裂病)を発症した女性がいた。
親族の間でも困った存在だった(キツネが憑いていると言われていた)。
そして中年になって,明確な妄想を持ちはじめ,「われは神であるぞよ」と言いだした。
※:思春期に発症し重症化する破瓜型ではなく、一定の妄想レベルにとどまる妄想型だったようだ。
親族の間では更に困った存在となったが,本人は堂々と予言などをするようになった。

するとなんと,信者がついたのである(もちろん普通の人たち)。
予言が当るためか,信者が増えていき,寄進も増えて,親族の中で一番裕福な暮しとなった
(私もその広い家に遊びに行った)。
以来、親族の間でも「神様」と呼称されるようになった(私は本名を知らない)。

「神様」はだいぶ前亡くなったが,葬儀は信者達が丁重に行なったという。
信じさせる人は特異な人格で,信じる人は素朴な健常者というわけだ。

ちなみに、キクもこの「神様」と一度対面したが、それ以上の関わりはなかった。


実はキクは、宗教に熱心ではあったものの、スピリチュアルなレベルの感性に乏しいことを自覚していたという。
結局、キクの心はシステム2が限度で、システム3以上の真に宗教的な境地とは無縁だった。
そのため、システム2の欠点である”物語化”の罠にはまって、抜け出せなくなったわけだ
(普通の信者にも多いタイプ)。
この問題については右記事で一般化して論じている→心理現象としての宗教:システム2

そういうことが透けて見えるので、私はキクの宗教思想には興味がない。


小笠原氏史跡旅:トップ

2024年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

本シリーズ記事は、山根一郎のサイトに掲載されていたもの(2024年3月で閉鎖)の転載版です。
小笠原流礼法を、その家元である小笠原氏の史跡(東北から九州に及ぶおよそ21箇所)を訪ねながら、確認するものです(2005年〜2016年)。
本記事は小笠原流(惣領家)礼法を教室で学んでいる人を前提としており、礼法をより深く理解する一助としての小笠原氏の歴史紀行です。

日本史に登場する小笠原長時(武田信玄に負けて信濃支配を許す:奥州会津)、
幕末の老中・小笠原長行(肥前唐津)、さらに小笠原の中で一番有名なあの小笠原諸島の由来(三州幡豆)にも触れています。


「小笠原流礼法史跡の旅」の記事は時代の古い順(さらに総領家→分家の順)
記事の執筆時期は記事本文に記し、ブログ記事の投稿日時は順序化のための便宜上のものである。
以下に記事のインデックス(リンク)を示す。

総領家(礼法的伝の家系)明野小笠原櫛形小笠原伊賀良(飯田)伊豆木(飯田)京都
禅と礼法:貞宗と赤澤氏信州松本奥州会津下総古河播州明石前小倉豊前豊津東京
唐津家(長行を輩出)三州吉田肥前唐津
勝山家(もう一つの礼法家)武州本庄下総関宿・国府台美濃高須越前勝山
庶流幡豆家(小笠原諸島の由来)三州幡豆
年譜:小笠原氏事跡年表(csv形式)
索引:人物・城・社寺など
伝説集:小笠原家にまつわる伝説
資料・研究論文:本記事の資料と小笠原流礼法についての研究論文の紹介


概要

小笠原氏は、清和源氏の系統で、平安時代に甲斐の小笠原庄を発祥とし、
初代小笠原である長清は頼朝の推挙で信濃国司となり、やがて子孫は信州飯田に居を構え、
そこで貞宗の代(南北朝時代)にそれまでの糾法(弓馬の法)に礼法を加える。

さらに信濃守護として松本深志を本拠とするも、飯田松尾の家系と宗家の座を争い、
長時の代に甲斐の武田信玄と争って破れ、苦難の流浪(この期間が礼書成立に重要)を経て、
貞慶の代で徳川方について古河を経て、秀政の代で再び信州へ帰り、
江戸時代に入って忠真の代より豊前小倉藩主を務めた。
その後も改易されることなく幕末を迎え、長州戦争に敗れて豊津で最後の藩主となる。

小笠原総領家は 礼法家というよりも鎌倉幕府創設期の有力御家人、室町幕府時代の有力守護大名、
そして徳川幕府の信任厚い譜代大名として重きをなしていた。

その間、飯田松尾を本拠地として惣領の座を争った家系は、古河・関宿を経て、越前勝山の城主となり貴重な史料を残している。

分家となった唐津藩主からは老中小笠原長行を輩出し、幕末史に名を残した(その家からはなんと新選組隊士も輩出している)
また貞宗の頃に分家した赤澤氏も江戸時代に小笠原姓にもどって弓法・礼法家として現代に至っている。
小笠原一族はこのほかに東北の南部氏から、土佐の岩崎家、九州まで全国にひろがっている。


持つべき銘柄は”日経平均”

2024年03月04日 | 時事

株はほとんどやらないのだが、唯一”日経平均”を、少々買っていた(もちろん正確な銘柄名ではない)。

それが今、市場最高値を更新中。

当然、自分の含み益も過去最高値で、売って”利益確定”といきたいところだが、上昇トレンドの最中に売るのは、売った後に値上がりするのが目に見えているので、バカげている。

今、現金化したい理由がないから、売らずに保持していよう(むしろ買い足したい)。

そもそも”日経平均”を買ったのは、平均株価の超長期トレンド(50年〜)を見ると、日経もダウもいずれも値上がりしているから(日本のバブル崩壊後の”失われた30年”だけが例外)。
すなわち、個別銘柄でなく、優良銘柄を平均化した株価は上昇トレンドが基調なのだ。
だから、元来リスクの高い株をリスクヘッジすると”平均”こそが買いとなる。

こうすれば細かな景気動向に一喜一憂せずに、人生の長さくらい長期保有することに意味があり、リーマンショックなどの一時的な暴落は、むしろ”買い”のチャンスとなる。

というわけで、買い足しのタイミングに迷っている現在、いっそのこと暴落を心待ちにしている。

以上は、私のシステム2の行動原理で、他のシステム3,4の原理とは関係ない(これが心の多重過程モデル)。


名駅周辺散策:那古野・ノリタケ・豊国

2024年03月02日 | 名古屋周辺

帰京しない週末はもっぱら温泉旅に行っていたため、名古屋とその周辺を訪れる機会を逸していた
(我がブログのカテゴリー別の記事数でも「東京周辺」が207あるのに対し、「名古屋周辺」は本記事を入れてもたった38)
この地にいるのも残り数年なので、これはもったいないと反省し、
行き先が限られた温泉旅を抑制して、地元名古屋とその周辺の散策を増やすことにする。
一応棲み家が名古屋市(の東端)なので、まずは名古屋市内を優先的に巡ろう。

前回は市内の”寺巡り”(→記事)だったが、今回は”地域”を選定基準にして、
現代の名古屋の中心地と言える名駅(めいえき:名古屋駅)にほど近い所(で行ってない所)とする。

まず頭に浮かんだのは、名古屋で最古の商店街である円頓寺(えんどんじ)商店街、
そしてその南に伸びる四間道(しけんみち)
この地は、名古屋発祥の地ともいうべき所で、名古屋巡りの”最初に”歩くに値する所。


例によって「ドニチエコきっぷ」(620円)を買って地下鉄東山線に乗り、
今池で桜通線に乗り換えて名古屋一つ手前の「国際センター」で降りる。
地上に上がった所は、名駅周辺の高層ビル群と名古屋城から流れる堀川(→記事)に挟まれた地。
堀川に並行に北に伸びる道が四間道で、まず浅間神社があり、その先に古い家並みが続く(写真:奇跡的に空襲を免れたらしい)。

この付近は「那古野」という地名だが、現地の住所を示したプレートには「なごの」とルビがふってある。
といっても名古屋は元は那古野であったことは確かで(今の名古屋城にある信長の最初の居城は那古野城)、たぶん上位レベルの地名・名古屋と発音上区別するために「なごの」と変更したのだろう(明治以降?)。

四間道界隈は、江戸時代初期に清洲の商人たちを集団移転させ(清州越え)、名古屋城の城下町を形成した所。
すなわち、那古野生まれの信長が居城を清州に移して以降、この付近では清州が中心地になったが、
徳川の世になって、再び清州から新生名古屋に中心地を移転したということだ。
そういうこともあってここだけなら、むしろ名古屋城と組み合わせて巡ってもいい。


アーケードのある円頓寺商店街に出てアーケードに沿って左(西)に進む(右に進むと名古屋城)。

小さな金比羅神社があり、そこのおみくじは名古屋弁で語られるというので、
100円入れて引いたら大吉で「幸福がやってくるでかんわ」とあり、
失せ物については「間にはさまっとる」とのこと。

商店街名の元となった円頓寺(日蓮宗)は商店街沿いにあって、本堂の鬼子母神が毎月18日に開帳されるという。

せっかくなので商店街で昼食をと思ったが、店のランチ1食分は私には多すぎるので、
商店街から出た大通り沿いにあった100円ローソンでおにぎりを2つ買って、
次の”ノリタケの森”のベンチに座って食べた(写真)。


そのノリタケの森だが、名古屋が世界に誇る高級洋食器ノリタケの本拠地で、
ここの地名が”則武”なのだ。

まず敷地内のウェルカムセンターに入ってノリタケという会社の歴史と業務分野の概要を知る(便器メーカーの TOTOも系列会社だと知る)。
それによると、会社自体は東京が発祥なのだが、名古屋のこの地に工場を建て生産の拠点とした。
さらに洋食器だけでなく、研磨技術やセラミック素材などを活かした工業生産の基礎分野に幅広く貢献していることがわかった(日本碍子(がいし)も系列会社)。

すなわち単なる洋食器メーカーではなく、”物作り愛知”を代表する会社に発展している。

ノリタケを代表する洋食器については別棟のミュージアム(有料)があり、製造工程の見学と体験コーナーを経て、
展示されている美術品の域に達した過去の製品(オールドノリタケ)に圧倒される(写真)。
いずれ文化財として、桃山時代の茶器(瀬戸や美濃)と並んで美術館に展示されることだろう。

ミュージアムショップにも立ち寄ったが、私自身は食器は全て木製にしてあるので、買う物は小皿1つなかった。
※:木製の方が歯触りがいいし、陶磁器は割った時のショックが大きい。


ノリタケの森から少々歩いて東山線の亀島駅から中村公園駅まで乗る。
地上に出ると、道路をまたぐ大きな鳥居が建っている。
道路は参道となっていて、その先にあるのが、豊国(とよくに)神社(写真)。
この地(中村区)で生まれた豊臣秀吉を祀る神社だ。

名古屋が自慢する戦国の”三英傑”、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3名はいずれも名古屋と深く関わりがある(秋の”名古屋まつり”の目玉はこの三英傑のパレード)。

特に信長と秀吉は名古屋(那古野)で生まれ育った。
尤も信長も秀吉も名古屋を去ってしまい、
名古屋の町割を整備し、大都市の基礎を作ったのは岡崎生まれの家康だ。

その意味では秀吉の存在感は名古屋でも比較的希薄なのだが(名古屋の主は織田か徳川)、
地元生まれの庶民だったこともあって、今でもドラマでの秀吉は名古屋弁を話す(例えば上のおみくじのセリフ)。
その秀吉を改めて顕彰しようと明治年間にできたのがこの神社(江戸時代はずっと顕彰できなかった)。

境内には秀吉誕生の地の石碑があり、隣接する中村区立図書館には秀吉と同じく地元出身で家臣だった加藤清正両人の記念館があり、
境内の隣には秀吉・清正それぞれゆかりの寺(常泉寺・妙行寺:いずれも日蓮宗)がある。
加藤清正も独自に信仰の対象となって(秀吉の家臣だったが関ヶ原では家康側に着いたので無問題)、
例えば東京の港区白金にも「清正公」(せいしょうこう)がある

この神社のあちこちに掛かっている絵馬が秀吉にちなんだ瓢箪型(500円)で、
それを記念に購入(私は願掛けをしないので持ち帰る)。
ちなみに神社境内にある食堂は庶民的でここなら利用してもよかった。

中村公園駅からは東山線一本で帰った。
かくして名古屋駅(名駅)を挟んだ(駅からすぐに行ける)名所を堪能した。


千葉県東方沖のスロースリップ

2024年03月01日 | 防災・安全

今、本州から左右に出た両手、すなわち上向き右手の能登半島と下向き左手の房総半島の両方が群発地震の巣となっている。

房総半島の東側の千葉県東方沖は、以前も地震の巣となった所で、しかもスロースリップを繰り返している。

スロースリップとは、プレート境界が一挙に破壊されるのではなく、ゆっくりしたズレ。
すなわち加速度が小さい分、地震の力(=質量×加速度)が小さい。

それでもマグネチュード5(震源近くで震度5、周囲は4)にはなるが、
震災レベル(マグネチュード7〜)には至らないため、ありがたいともいえる。
震源の場所も、南関東の都市部からは遠いし。

すなわち、千葉県東方沖は、時たま震度5程度の地震が起きるが、
破壊的な地震には至らず収束する傾向をもつ(震度5-4程度で被害が発生するなら、防災的にそちらが問題)。

ちなみに、内陸の「茨城県南西部」も群発はしないがよく地震を起こす(震度3レベルだが)ことは関東で有名。

言い換えれば南関東で怖いのはここではなく、東京湾・相模湾を震源とする地震だ。


「霊が見える」という現象の事例報告:リンクあり

2024年03月01日 | 心理学

以前、記事にした霊が見える」という現象の事例報告が論文(「『霊が見える』という現象の事例報告とその批判的・現象学的検討」)として刊行された。
論文本体pdf

論文は学術的な内容なので、ここで簡単に解説する。

本稿は日常的に「霊が見える」という1名の事例について、まずは虚言(嘘)・錯視(誤認)・病理的幻視(幻覚)の可能性の視点から批判的に検討し、それらが認められないことで、次にその11に及ぶ報告例がどのように見えたのか、リアルな視覚対象と対比するため、その現れ方を現象学的に検討したものである。

本例は、件数的・内容的に多彩な霊視覚(「霊視」は”霊見る”という用法もあるため、”霊見る”現象に特化するためこう命名)例で、数名分のデータに相当する充実した内容であった。
見えた”霊”の形態は、妖怪的なものからリアルな人間に近いもの、あるいは人体の一部や抽象的な模様まで含まれる(論文中に本人のイラスト:右図はその1例で横断歩道に立つ女性の”霊”。下半身が不明瞭だった点が実在の人物像と異なっていたという)。

また現れの視覚的リアリティもリアルに近い明瞭なものから、不確かなものまで含まれる。

ただ、11例の共通特徴が明確で、いずれも音を伴わず、また視覚者との交渉(コミュニケーションや関わり反応)が見られなかった。
この特徴は、視野欠損に伴う神経症状であるシャルル・ボネ症候群の幻視と同じである。
ただし、本例は視野欠損がなく、また他の幻視の原因となる末梢視覚系および中枢視覚系の病理は見出されていない(特に脳については精密検査済み)。

そして幻視は視覚現象のデフォルトとして非病理的にもあり得る、という立場を紹介している(ただ大抵の健常者が覚醒時に幻視を経験しないのも確か)。
※:健常者が普通に経験する睡眠中の夢は、聴覚等を伴い、対象と交渉もする立派な幻覚である。

また視覚対象は外界と無関係に視野上に見えるのではなく、外界の3次元空間上に配置されている(例えば視覚者が角運動をするに従って視覚対象のアングルが変化)。

本論は「霊が見える」という現象(霊視覚)を心理現象として認めるレベルでの研究で、「霊が実在する」かどうかに関しては全く言及しない
※:私のスピリチュアルな関心もそこにはない。従って本研究はあくまで余興にすぎない。

むしろその議論の材料となる位置づけとしたい(霊が見えない=観測されないのに実在するという主張は、「物語」であって、科学的議論としてはあり得ない)。