私は山田洋次氏の監督された作品は、多くの監督された作品より、観賞した作品は少ないが、
特に『男はつらいよ』シリーズに関して、
1969(昭和44)年~1995(平成7)年)の27年間に全48作が製作されたが、
苦手な私は、たぶん6作品前後しか観ていないと思われる。
これ以外の作品を思いめぐらすと、
『下町の太陽』(1963年)
『馬鹿まるだし』(1964年)
『馬鹿が戦車でやってくる』(1964年)
『霧の旗』(1965年)
『故郷』(1972年)
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)
『遙かなる山の呼び声』(1980年)
『キネマの天地』(1986年)
『たそがれ清兵衛』(2002年)
『隠し剣 鬼の爪』(2004年)
『武士の一分』(2006年)
このくらいの作品が浮かんだりしている。
そして名作と名高い、『同胞』(1975年)、『息子』(1991年)、
『学校』(1993年)から始まるシリーズを、無念ながら見逃している。
私は1969(昭和44)年『男はつらいよ』シリーズが始まり、その後は周知の通り大ヒットを重ねるのであるが、
それまでの間は、山田洋次監督は模索していたのではなかろうか、と思ったりしたのである。
監督のデビュー前から、同じ松竹映画からは、大島渚、篠田正浩、吉田喜重の三氏が、
気鋭の新人としてヌーヴェルヴァーグ旋風を巻き起こして、活躍されて私は注視していたひとりでもあった。
脚本家、まして監督となれば、ご自身の思考されている企画の作品を撮りたい、
そして多くの方たちに映画館で観てもらい、ヒットを重ねたい、
と誰しも同じような思いと私は想像する。
しかし、映画の作品を完成し、映画館で上映し、観客の目に触れるまでは、
膨大な諸経費を要するのである。
小説の世界では、創作者は出版社、そして編集者のアドバイス、思惑で作品を完成し、
店頭に並ぶまでは、映画と比べ、そほど経費は要しない。
音楽の世界も、ひとつのアルバムを店頭に並ぶまでは、
映画の作品より経費は掛からないケースが圧倒的に多い。
映画界は、作品を私たちが観るまでには、原則として製作・配給・興行の三つの世界から成り立ち、
製作は作品を完成させるまで、配給は制作から販売権を買取り、宣伝費などを含めて、
映画館の興行に一定の比率で行われるのが、通常であった。
東京オリンピックが開催される頃の1964(昭和39)年の当時の頃までは、
たとえば映画会社の大手の場合は、
製作関係のプロデューサーが企画し、監督を始めする脚本家、そして撮影、照明などのスタッフなどが指名され、
撮影所などで作品を完成し、
配給部門の方たちは宣伝費などで付加価値を加味し、
できるかぎり自社の全国の映画館で上映する、製作・配給・興行が一体化が、
望ましく、このようなことが多くあった。
しかし有力な監督の場合は、ときには映画会社の思惑に同調できず、
独立した製作小会社として、ブロダクションを設立したりしたが、
大半は赤字が多く、次作までは困憊したりした。
或いは映画会社の専属契約となった監督が自ら企画を提出し、
結果としヒットされれば、喜ばしいことであるが、予測した以下の観客数で、赤字になった場合、
次作の依頼は当分適わず、映画会社より干されるのである。
この当時の伝説となったが、この間の監督自身の生活は、
リヤカーをひっばって、屋台で営業されて、飢えをしのいだ、と私は風の噂で聞いたりしていた。
作品が良くても、採算がなく赤字は、
映画会社は民間でもあり、監督自身の家族の生活まで困窮することなのである。
このような背景の中で、山田洋次氏は監督としてデビューしたのである。
そして松竹の専属契約の中で、山田洋次監督は『男はつらいよ』シリーズが大ヒットを重ねる間、
松竹に多大な業績をもたらした功績として、ときおりご自身の意図された作品を完成され、
私たちに数々の名作を観賞できる状況になった、と私は深く思っているのである。
このような成功した例は、まったくの稀(まれ)なケースである。
たとえば黒澤明の作品の軌跡を思い馳せれば、明白なことだろう。
『隠し砦の3悪人』(1958年)で製作日数、製作直接経費も予定よりオーバーし、封切予定日も遅延し、
契約していた東宝はやむえず、『黒澤プロ』の設立に同調した、と風の噂で聞いたりした。
その後は、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)は大ヒットとなったが、
『赤ひげ』(1965年)を最後に、
その後は撮りたくても取れない状況が続き、『どですかでん』(1970年)以降の作品は、
輝きが乏しく、かっての作品からは色あせている。
ここ数10年の映画界は、従来の映画館の入場料などの興行の収入、
そしてビデオ・DVDの収入、テレビ放送するテレビ権の収入などがあるが、
依然として作品の単位としてみれば、赤字が多く、
ときおりのヒット作品でカバーしているのが実態である。
映画会社の大手としては、制作費の膨大の危険性を避けるために、外部の製作会社に委託したり、
そして配給権、興行権を行い、
その上に土地建物賃貸収入などで、映画会社としての経営基盤が成り立っている。
このように時代の変貌に思い馳せると、改めて長年に及び名作を発表している山田洋次監督は、
稀(まれ)な巨匠であり、敬愛を重ねている。
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特に『男はつらいよ』シリーズに関して、
1969(昭和44)年~1995(平成7)年)の27年間に全48作が製作されたが、
苦手な私は、たぶん6作品前後しか観ていないと思われる。
これ以外の作品を思いめぐらすと、
『下町の太陽』(1963年)
『馬鹿まるだし』(1964年)
『馬鹿が戦車でやってくる』(1964年)
『霧の旗』(1965年)
『故郷』(1972年)
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)
『遙かなる山の呼び声』(1980年)
『キネマの天地』(1986年)
『たそがれ清兵衛』(2002年)
『隠し剣 鬼の爪』(2004年)
『武士の一分』(2006年)
このくらいの作品が浮かんだりしている。
そして名作と名高い、『同胞』(1975年)、『息子』(1991年)、
『学校』(1993年)から始まるシリーズを、無念ながら見逃している。
私は1969(昭和44)年『男はつらいよ』シリーズが始まり、その後は周知の通り大ヒットを重ねるのであるが、
それまでの間は、山田洋次監督は模索していたのではなかろうか、と思ったりしたのである。
監督のデビュー前から、同じ松竹映画からは、大島渚、篠田正浩、吉田喜重の三氏が、
気鋭の新人としてヌーヴェルヴァーグ旋風を巻き起こして、活躍されて私は注視していたひとりでもあった。
脚本家、まして監督となれば、ご自身の思考されている企画の作品を撮りたい、
そして多くの方たちに映画館で観てもらい、ヒットを重ねたい、
と誰しも同じような思いと私は想像する。
しかし、映画の作品を完成し、映画館で上映し、観客の目に触れるまでは、
膨大な諸経費を要するのである。
小説の世界では、創作者は出版社、そして編集者のアドバイス、思惑で作品を完成し、
店頭に並ぶまでは、映画と比べ、そほど経費は要しない。
音楽の世界も、ひとつのアルバムを店頭に並ぶまでは、
映画の作品より経費は掛からないケースが圧倒的に多い。
映画界は、作品を私たちが観るまでには、原則として製作・配給・興行の三つの世界から成り立ち、
製作は作品を完成させるまで、配給は制作から販売権を買取り、宣伝費などを含めて、
映画館の興行に一定の比率で行われるのが、通常であった。
東京オリンピックが開催される頃の1964(昭和39)年の当時の頃までは、
たとえば映画会社の大手の場合は、
製作関係のプロデューサーが企画し、監督を始めする脚本家、そして撮影、照明などのスタッフなどが指名され、
撮影所などで作品を完成し、
配給部門の方たちは宣伝費などで付加価値を加味し、
できるかぎり自社の全国の映画館で上映する、製作・配給・興行が一体化が、
望ましく、このようなことが多くあった。
しかし有力な監督の場合は、ときには映画会社の思惑に同調できず、
独立した製作小会社として、ブロダクションを設立したりしたが、
大半は赤字が多く、次作までは困憊したりした。
或いは映画会社の専属契約となった監督が自ら企画を提出し、
結果としヒットされれば、喜ばしいことであるが、予測した以下の観客数で、赤字になった場合、
次作の依頼は当分適わず、映画会社より干されるのである。
この当時の伝説となったが、この間の監督自身の生活は、
リヤカーをひっばって、屋台で営業されて、飢えをしのいだ、と私は風の噂で聞いたりしていた。
作品が良くても、採算がなく赤字は、
映画会社は民間でもあり、監督自身の家族の生活まで困窮することなのである。
このような背景の中で、山田洋次氏は監督としてデビューしたのである。
そして松竹の専属契約の中で、山田洋次監督は『男はつらいよ』シリーズが大ヒットを重ねる間、
松竹に多大な業績をもたらした功績として、ときおりご自身の意図された作品を完成され、
私たちに数々の名作を観賞できる状況になった、と私は深く思っているのである。
このような成功した例は、まったくの稀(まれ)なケースである。
たとえば黒澤明の作品の軌跡を思い馳せれば、明白なことだろう。
『隠し砦の3悪人』(1958年)で製作日数、製作直接経費も予定よりオーバーし、封切予定日も遅延し、
契約していた東宝はやむえず、『黒澤プロ』の設立に同調した、と風の噂で聞いたりした。
その後は、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)は大ヒットとなったが、
『赤ひげ』(1965年)を最後に、
その後は撮りたくても取れない状況が続き、『どですかでん』(1970年)以降の作品は、
輝きが乏しく、かっての作品からは色あせている。
ここ数10年の映画界は、従来の映画館の入場料などの興行の収入、
そしてビデオ・DVDの収入、テレビ放送するテレビ権の収入などがあるが、
依然として作品の単位としてみれば、赤字が多く、
ときおりのヒット作品でカバーしているのが実態である。
映画会社の大手としては、制作費の膨大の危険性を避けるために、外部の製作会社に委託したり、
そして配給権、興行権を行い、
その上に土地建物賃貸収入などで、映画会社としての経営基盤が成り立っている。
このように時代の変貌に思い馳せると、改めて長年に及び名作を発表している山田洋次監督は、
稀(まれ)な巨匠であり、敬愛を重ねている。
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