夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

山田洋次監督は、何故『男はつらいよ』のシリーズを撮り続けてきたのか・・!?

2011-04-04 15:14:44 | 映画・テレビ
私は山田洋次氏の監督された作品は、多くの監督された作品より、観賞した作品は少ないが、
特に『男はつらいよ』シリーズに関して、
1969(昭和44)年~1995(平成7)年)の27年間に全48作が製作されたが、
苦手な私は、たぶん6作品前後しか観ていないと思われる。

これ以外の作品を思いめぐらすと、
『下町の太陽』(1963年)
『馬鹿まるだし』(1964年)
『馬鹿が戦車でやってくる』(1964年)
『霧の旗』(1965年)
『故郷』(1972年)
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)
『遙かなる山の呼び声』(1980年)
『キネマの天地』(1986年)
『たそがれ清兵衛』(2002年)
『隠し剣 鬼の爪』(2004年)
『武士の一分』(2006年)
このくらいの作品が浮かんだりしている。

そして名作と名高い、『同胞』(1975年)、『息子』(1991年)、
『学校』(1993年)から始まるシリーズを、無念ながら見逃している。


私は1969(昭和44)年『男はつらいよ』シリーズが始まり、その後は周知の通り大ヒットを重ねるのであるが、
それまでの間は、山田洋次監督は模索していたのではなかろうか、と思ったりしたのである。

監督のデビュー前から、同じ松竹映画からは、大島渚、篠田正浩、吉田喜重の三氏が、
気鋭の新人としてヌーヴェルヴァーグ旋風を巻き起こして、活躍されて私は注視していたひとりでもあった。

脚本家、まして監督となれば、ご自身の思考されている企画の作品を撮りたい、
そして多くの方たちに映画館で観てもらい、ヒットを重ねたい、
と誰しも同じような思いと私は想像する。

しかし、映画の作品を完成し、映画館で上映し、観客の目に触れるまでは、
膨大な諸経費を要するのである。

小説の世界では、創作者は出版社、そして編集者のアドバイス、思惑で作品を完成し、
店頭に並ぶまでは、映画と比べ、そほど経費は要しない。

音楽の世界も、ひとつのアルバムを店頭に並ぶまでは、
映画の作品より経費は掛からないケースが圧倒的に多い。


映画界は、作品を私たちが観るまでには、原則として製作・配給・興行の三つの世界から成り立ち、
製作は作品を完成させるまで、配給は制作から販売権を買取り、宣伝費などを含めて、
映画館の興行に一定の比率で行われるのが、通常であった。

東京オリンピックが開催される頃の1964(昭和39)年の当時の頃までは、
たとえば映画会社の大手の場合は、
製作関係のプロデューサーが企画し、監督を始めする脚本家、そして撮影、照明などのスタッフなどが指名され、
撮影所などで作品を完成し、
配給部門の方たちは宣伝費などで付加価値を加味し、
できるかぎり自社の全国の映画館で上映する、製作・配給・興行が一体化が、
望ましく、このようなことが多くあった。

しかし有力な監督の場合は、ときには映画会社の思惑に同調できず、
独立した製作小会社として、ブロダクションを設立したりしたが、
大半は赤字が多く、次作までは困憊したりした。

或いは映画会社の専属契約となった監督が自ら企画を提出し、
結果としヒットされれば、喜ばしいことであるが、予測した以下の観客数で、赤字になった場合、
次作の依頼は当分適わず、映画会社より干されるのである。

この当時の伝説となったが、この間の監督自身の生活は、
リヤカーをひっばって、屋台で営業されて、飢えをしのいだ、と私は風の噂で聞いたりしていた。
作品が良くても、採算がなく赤字は、
映画会社は民間でもあり、監督自身の家族の生活まで困窮することなのである。


このような背景の中で、山田洋次氏は監督としてデビューしたのである。

そして松竹の専属契約の中で、山田洋次監督は『男はつらいよ』シリーズが大ヒットを重ねる間、
松竹に多大な業績をもたらした功績として、ときおりご自身の意図された作品を完成され、
私たちに数々の名作を観賞できる状況になった、と私は深く思っているのである。

このような成功した例は、まったくの稀(まれ)なケースである。

たとえば黒澤明の作品の軌跡を思い馳せれば、明白なことだろう。
『隠し砦の3悪人』(1958年)で製作日数、製作直接経費も予定よりオーバーし、封切予定日も遅延し、
契約していた東宝はやむえず、『黒澤プロ』の設立に同調した、と風の噂で聞いたりした。
その後は、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)は大ヒットとなったが、
『赤ひげ』(1965年)を最後に、
その後は撮りたくても取れない状況が続き、『どですかでん』(1970年)以降の作品は、
輝きが乏しく、かっての作品からは色あせている。


ここ数10年の映画界は、従来の映画館の入場料などの興行の収入、
そしてビデオ・DVDの収入、テレビ放送するテレビ権の収入などがあるが、
依然として作品の単位としてみれば、赤字が多く、
ときおりのヒット作品でカバーしているのが実態である。

映画会社の大手としては、制作費の膨大の危険性を避けるために、外部の製作会社に委託したり、
そして配給権、興行権を行い、
その上に土地建物賃貸収入などで、映画会社としての経営基盤が成り立っている。

このように時代の変貌に思い馳せると、改めて長年に及び名作を発表している山田洋次監督は、
稀(まれ)な巨匠であり、敬愛を重ねている。


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『山田洋次監督が選んだ日本の名作 ~映画は家族をどう描いてきたか~』、私は視聴しながら・・。

2011-04-04 10:11:55 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の66歳の身であるが、
昨夜、ぼんやりとテレビのニュースを視聴した後、何か良い番組がないかしら、
と思い新聞のテレビ番組表を見て、
NHKのBSプレミアムで、午後10時より『山田洋次監督が選んだ日本の名作』と題された番組を知り、
遅れをとったと思いながら、番組の途中から視聴したのである。

正式な番組名は、『山田洋次監督が選んだ日本の名作 - 映画は家族をどう描いてきたか -』であり、
何かしら山田洋次監督が出演され、選出した「家族」の映画50本への思いや作品にまつわるエピソードを発露され、
司会として山本晋也さん,キャスターの小野文恵さん、
そしてゲストスターとしてピーター・バラカンさん、女優の香川京子さんが出演されて、
5名で名作を語る、という内容であった。

この間、大林宣彦監督が映画の世界を短かな言葉で発言したテープが流され、
教示を受けたりした。

この番組は、今後にこの番組として、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本~家族編~」』の放送を前の
序章のような番組と、私は途中から判明した。

http://www.nhk.or.jp/yamada100/
☆【NHK BSプレミアム】<==、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本~家族編~」』☆


私は若き頃に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をし、挫折した身であるが、
今でも映画に対する熱い思いは、心の片隅に残っているので、
真摯に山田洋次、山本晋也、ピーター・バラカン、香川京子、大林宣彦の各氏の発露された言葉を
受け止めていた・・。


番組の中の一部として、女優の香川京子さんが、
『・・『男はつらいよ』のシリーズの第一作で、マドンナ役として、
松竹のプロデューサーの方から出演の依頼がありましたが・・結果としては、取りやめになりました・・』
とこのようなことを話された。

『香川京子さんは大スターですし・・あの頃の『男はつらいよ』はB級映画の扱いで、
製作コストも余り賭けられなくて・・』
とこのような趣旨を山田洋次監督は微苦笑をまじえながら、発言された。


私は山田洋次監督を敬愛しているが、この中の思いのひとつとして、
いつも『『男はつらいよ』のシリーズを長年に及び、結果としては48作品を監督されきたのか・・』
念頭に思い続けているひとりである。

次回、『山田洋次監督は何故、『男はつらいよ』のシリーズを撮り続けてきたのか』を命題に、
投稿する予定である。


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