夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『24歳米国人女性、児童避難させた後、津波に・・』、私は読み終えた後、思わず・・。

2011-04-06 17:37:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、

《 24歳米国人女性、児童避難させた後津波に… 》

と題された記事を読んだ後、しばらく心が揺れて、感銘させられた・・。


無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
教え子の中学生の門出を祝おうと、
メッセージを用意していた米国人女性は、卒業式前日に津波にのまれた。
東日本大震災は、日本を愛した外国の人たちの命も奪い去った。

 〈 I will never forget you!(君たちを決して忘れない)〉

宮城県石巻市の市立稲井中学校の廊下には、
英語指導助手だったテイラー・アンダーソンさん(24)が紙に書いたメッセージが、
この春の卒業生67人全員の名前とともに飾られている。
傍らには折り鶴が添えられていた。

米バージニア州出身。
高校生の時、アニメの「となりのトトロ」を見て日本語のリズムに魅せられ、
2008年に来日して、市内の六つの小中学校で教えた。
指導助手の志望動機には「日本と外国の若者を結びつけたい」とつづっていた。

先月卒業した稲井中の生徒たちは、1年生から教えてきた。
女子生徒の一人は、
「アメリカにいる恋人の話もしてくれて、友達みたいな先生だった」と振り返る。

同中の成澤智子教諭によると、
12日の卒業式が近づくと、放課後も職員室に残り、一人で懸命に鶴を折っていたという。

11日、別の小学校で地震に見舞われたアンダーソンさんは、
児童を避難させた後、
1人で自宅アパートに向かう途中、津波に巻き込まれた。

(2011年4月6日14時46分 読売新聞)
     ・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110406-OYT1T00603.htm?from=main6
☆【YOMIURI ONLINE】 <==《 24歳米国人女性、児童避難させた後津波に… 》☆


私はアメリカの若き女性のひとりが、
《日本と外国の若者を結びつけたい》という信念で、異国の日本に来日されて、
宮城県石巻市の市内の六つの小中学校で、英語指導助手として教えられていた。

このなかのひとつの稲井中の生徒たちには、
たまたまま1年生から教え、今回3年生として卒業を迎えるので、
12日の卒業式が近づくと、放課後も職員室に残り、一人で懸命に鶴を折り、
そしてメッセージとして、

【 I will never forget you! 】
       (君たちを決して忘れない)〉

と綴られた。

この根底には、3年間の教え子に対して、卒業のお別れに際して、
門出を祝う共に、これまでの過ぎし3年の愛惜を込められて、綴られた言葉と私は受けとめている・・。


そして、卒業式の前日の11日、
別の小学校で教えていた時、地震に見舞われ、児童を避難させた後、
1人で自宅アパートに向かう途中、不幸にも津波に巻き込まれ、亡くなれた・・。

若き女性の無念さは、私なりに深く理解できる。


私は卒業式を無事に終えられた稲井中の卒業生、
この若きアメリカの英語指導助手が遺(のこ)されたメッセージと折り鶴を見て、

『先生・・私たちこそ・・先生のこと・・いつまでも感謝しながら・・忘れません・・』

とご冥福を祈りながら、心の中で呟(つぶや)かれた、
と私は思ったりしている。

たまたまこのニュースを読み、私は感銘を受けたのである。


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『二十四の瞳』、遠い昔に初めて観賞した頃、ささやかな私の想いで・・。

2011-04-06 10:16:26 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜の10時過ぎからNHKのBSプレミアムで、
『山田洋次監督が選んだ日本の名作 ~映画は家族をどう描いてきたか~』の第2作目として選定された、
木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954=昭和29年)を視聴した。

私はこれまで、ほぼ10年於きぐらい観賞してきたが、
改めて日本人の誰しもの素直に、心の琴線を揺り動かす突出した日本映画の史上に燦然と輝く名作である、
と確信させられたのである・・。

居間にあるテレビで観賞し終わった後、私はビールを呑みながら、
ぼんやりとこの『二十四の瞳』を初めて観賞した頃に思いを馳せたりした。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
『山彦』、『海彦』になれなかったので、やむえず里の児の『里彦』だ、と心に決めたりしていた。

その後、私が小学2年の三学期(1953=昭和28年)の3月に父が病死し、
翌年の1954=昭和29年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

こうした困窮した我が家の生活の中で、私は母に懇願して独りで映画館に通ったのは、
確か私は4年生の頃で、東映の『笛吹童子』、『里見八犬伝』等の娯楽映画を満喫していた。

この当時、我が家の最寄駅は、京王腺のつつじヶ丘駅(当時は、金子駅)であり、
児童の私としては、15分の道のりで、通学していた滝坂小学校は駅に近くあった。
この当時の映画館は、大映撮影所に近い調布駅の繁華街に『調布銀映』、
日活撮影所の最寄駅だった布田駅には『調布映画劇場』、
その後、都心のベットタウンに変貌し始めた千歳烏山駅には、『千歳映画劇場』が新築されたりした。


このような時代の背景の中で、
確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
布田駅にある『調布映画劇場』で『二十四の瞳』を観賞した・・。

私は同級生と座席に座り、たまたま女の同級生と並んだのである。

『二十四の瞳』の児童のひとりの女の子、松ちゃんが困苦した家庭の中で、
百合の花の絵柄のついたアルマイトのお弁当箱が欲しい、と母親に懇願するシーンで、
隣席の同級生が泣き出し、
俺も泣かないとまずいかなぁ、と思ったりした。

私は観賞しながら、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。

そして私が涙を浮かべたのは、この松ちゃんが奉公に出され後、
同級生だった人たちが、ほぼ全員揃って修学旅行に来て、
引率してきた大石先生が、たまたま同僚の人とふたりで、
偶然に食事処で、従業員として働かされている松ちゃんと再会するシーンであった。

松ちゃんは同級生だった人たちに身を隠し、帰船する同級生を波止場で見送るシーン、
私は涙をポロポロと流れていたのである。

しかし恥ずかしながら、この当時は、ストーリーも完全に理解できなかったのである。


後年、二十歳の私は、映画青年の真似事をしていた時で、
確か銀座の『並木座』と思われるが、この『二十四の瞳』を観賞した。

この時は、何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』の歌は、これ以来、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の片隅が蘇(よみがえ)り、『浜辺の歌』を心の中で唄ったりしている。


このようなことを私は、深夜思い馳せたりしたのである。

尚、この『二十四の瞳』は、封切公開されたのは1954(昭和29)年9月14日であり、
この当時の松竹の宣伝ポスターの文面には、
《・・
美しい景色に囲まれた瀬戸内海小豆島!
女教師と十二人の教え子が綴る涙ににじむ愛の物語!
・・》
と私は後年に知ったのである。


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