夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京の郊外は、乙女のような変貌多い天候となり、高齢者の私は戸惑いながら・・。

2011-08-04 18:59:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨夜、NHKのテレビの天気情報を見ていたら、
明日の4日は朝の6時は23度、昼下がりは25度前後、そして夕方の24度前後で、
曇りの日中であるが、午後の3時過ぎから小雨、と報じていた。

私は暑さに苦手な身であるので、涼しい中で買い物、散策できる、
と秘かに喜んでいた。


今朝は淡い陽射しの朝を迎えて、家内は洗濯を朝食前に終えて、
いつものように外干しの洗濯竿に盛大に干していた・・。

この後、10時半過ぎ、予告もなく突然に小雨が降りだし、
あわてて家内は洗濯物を取り込んだり、
私はアルミ製のガラス戸を、簾〈すだれ〉、網戸越しに開けていたので、急いで閉めたりした。
そして本降りとなり、午後3時過ぎから小雨の予報より早かったので、
天上の気候の神々は、せっかちな性格に変わったのかしら、
と私たち夫婦は苦笑した。

そして私は、買物と散策の時間は、しばらく待機しょうと、雨降る庭を眺めたりしていた・・。
その後、一時間ぐらい過ぎると、雨は上がり、急激に明るくなり、
空いっぱい青空となり、陽射しは燦々と照らしだした。

湿度も多く蒸し暑い夏空の中、私は近くの銀行、郵便局、そしてスーパーで買い物を終えた後、
どんよりとした曇り空となり、私は帰宅を急いだりした。

この後は、青空の夏の陽気となったり、どんよりとした曇り空となり、
再三くりかえし夕暮れとなった。


私は苦笑しながら、少年・少女の多感な心情かしらと思ったり、
そして乙女の移り変わりの不安定な気持ちと同じかしら、と思いを重ねたりした。
確かフランスの女流作家は、その昔に、三月生まれ、と表現していたが、
今の時節は8月なのに、と私はきまぐれな天候に戸惑った日となり、
どうしてなの、と空を見上げたりしている。


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齢ばかり重ねた私、『心のふるさと』を恥ずかしながら、発露すれば・・。

2011-08-04 01:18:11 | 定年後の思い
私は齢を重ねた66歳の年金生活の身であるが、
過ぎた日々の半生を振り返えったりすると、ときおり私の心の源泉は、
と問い続けたりすることがある。

そして、どなたも同様と思われるが、
やはり私は幼年期、少年期にときおり思い寄せたりしている・・。


私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として、1944〈昭和19〉年の秋に生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に囲まれて、乳児の時を過ごした・・。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

敗戦後、まもなくして農地改革で田畑は減少したが、
幼児の私には、それなりの田畑、湧き水、小川、蓮(ハス)専用の田んぼ、
池、防空壕などの数多くの情景が、
今でも鮮明に残っている・・。


長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは、今度の3番目として女の子を期待していたようであった、と私は後年に知ったりした。
私の後に生まれた妹の2人を、何かと溺愛していたので、
私は幼児なりに感じ取り、いじけた可愛げのない幼年期を過ごした。

この間、祖父と父は大学に学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、長兄が小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

そして長兄は、当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
初めて国立の中学校に入学できて、
祖父、父はもとより周囲の期待に応(こた)えたのである。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。


このした中で、私は小学校に入学しても、
通信簿は『2』と『3』の多い劣等性であった。
父が小学2年3学期、祖父がまもなくした小学3年の一学期に死去し、
大黒柱をなくした農家の我家は、没落しはじめたのである・・。

この当時の私は、お兄さんたちは出来たのに、と担任の先生のため息をさせ、
相変わらずの劣等生で、いじけた影の子であった・・。


後年、都心の私立の高校に通った頃から、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに伸び伸びとして育ち、勉強の楽しさも初めて実感し、程ほどの成績となり、
映画、文学、そして歴史などに深く興味を持つ高校の時代を過ごした。

この後は、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、挫折した後、
何とか大企業の中途入社でき、サラリーマンを35年ばかりし、
定年退職を迎えたのである。


私は20代のなかばの頃まで、
地元を振りかえることをなるべく避けていた・・。

私が中学生の頃までに、私の住む地域は急激に住宅街への変貌する状況に、
戸惑いが多く、心身の波長が耐え切れなかった面があったが、
何よりも劣等性だった小・中学時代を思い出すのも、
負い目もあり、つらく、ふるさとなんかは、と思い続けていた。

30代のなかば、実家の近くに家を構えた時、
家内と散策するたびに、小・中学校に通った路とか、
かっての情景を幾たびか私は家内に語ったりした。

そして定年退職後、私は肩書きを失くした名刺となり、
やむなく、調布の里っ子、と明記しながら、
友人らに恥ずかしげに手渡したりしている。


ここ40年ぐらい、心のふるさと・・数多く使われているが、
この言葉を最初に使われたのは、私のつたない読書歴のメモに記載している。

旅行専門の月刊誌の『旅』の編集長をしていた紀行作家・岡田喜秋が、
作家・立原正秋に紀行文の連載を依頼した時、
『心のふるさとをゆく』とタイトルを命名されたのである。
1968〈昭和43〉年の新年号から1年間連載されていた。

余談であるが、私の青年期に於いて、
数多くの小説、紀行文、随筆などを、とりとめなく乱読してきたが、
今は亡き立原正秋氏の著作された作品から、圧倒的に感銘し、
私は自己形成時に、まぎれなく影響を受けたひとりである。


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