夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

なぜかしら我家は、いつも街一番となり、私は微苦笑を重ねながら・・。

2011-08-01 18:59:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の住む地域は、それぞれのゴミ出し日が調布市から指定されている。
確か7年前の頃から、原則として、道路に面した敷地の一角に決めた場所に置くのが、
市の収集される方たちとの暗黙の約束となっている。

我家も住宅街の片隅にある一軒屋であるので、門扉を開けて、
内側の一角に、市の指定された燃えるゴミ袋、燃えないゴミ袋、缶などを指定日に置くのある。

市から指定された有料ゴミ袋制度であるが、
ゴミの収集、1部再利用化などを総合的に配慮すれば、
東京郊外の住民のひとりとして、最良の制度かしら、と私は秘かに絶賛している。


今朝も指定されたゴミを家内の指示棒で、
のろまな私なりに、整理の補助をしているのであるが、
付近のそれぞれの家より、一番早いと思われる。

少なくとも朝の6時前に、我家では門扉を開けて、
指定された場所に置くのである。


収集時間は、早くても9時過ぎであるので、
『XXちゃんさぁ・・まだ5時半よ・・
この付近のお宅の中で・・一番早いじゃないの・・』
と私は家内に云ったりしていた。

私は最初の頃は、ボヤいていたが、
何事も早めにすれば後が楽だわ、と家内の性格で致しがたいと思い、私は従順に補助役に徹している。


過日の月曜日の朝の6時前、いつものように家内の指示により、
私は門扉で『燃えないゴミ』袋を置こうとしていた・・。

この時、たまたま近くにお住いの60歳前後の麗〈うるわ〉しき奥様がウォーキングをしていて、
私と目があってしまい、
『あらぁ・・XXさんのお宅・・いつも早いですわねぇ・・
この付近では・・一番ですょ』
と奥様が微笑みながら、私に云ったりした。

私は返事に困り、
『奥様こそ・・早朝から新鮮の空気の中で・・ウォーキングをされて・・』
と大きな声で明るく云ったりした。

私は小学生から大学を中退するまで、恥ずかしながら学業の成績は一番になったこともなく、
特に小学・中学生の時は、劣等生であったので、一番と云われても、遠い世界であった。
こうした思いが私の根底にあり、ゴミ出し一番、と云われても、私は独り微苦笑を重ねたりした。


下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の住む地域に於いて、8月1日のこの日には、『お盆の日』を迎えて、お墓参りとなり・・。

2011-08-01 00:28:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私の実家は付近の地域は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、田んぼの外れに半反程度の広さの蓮専用の水田があった。

私は父、祖父が亡くなる小学三年生の頃までの、この頃を思いだしたりしていた。
遠い55年以上の前のことであるが、記憶を頼りに思い浮かべていたのである・・。


【迎え火】

7月30日の午前中のひととき、
仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、
馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉に茄子を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合の花などの草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。

この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。

この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを先頭に、
祖先が埋葬されているお墓に行き、
参列者の家族は、おのおの手を後ろに組み、祖先を乗せて、帰宅するが、
盆棚の前で、手を解く、
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。


【お盆の日の当日は・・。】

叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅し、
盆棚でお線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をし、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。


【送り火】

お盆の日の当日の夕刻、
家族は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。


その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。


このように記憶していたが、遠い昔の出来事であるから、
定かでないが、心に残っている。


私が定年後になると、家内と共に8月1日の『お盆の日』は、
朝の9時半前に、実家の長兄宅に行き、
簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに私の少年期まで何かとお世話になったので、
この頃の時代の話を私はしたりしたりすることが多い。
このようなことが6年ばかり続いている・・。


長兄宅を辞した後、家内とお墓参りに向うが、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、
生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。

その後、路線バスに乗り、お寺に着く。

境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日が多く、一層に静寂となる。
そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。
ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえるのが、
毎年の習性のような情景となる。

私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのは、まぎれないことであるので、
私は感謝の一心で、お墓参りをしている。

家内は母が生前の時、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は今でも家内と母に秘かに、今でも感謝している。

お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備える。
そして、お線香を奉げる。

私はお参りをするたびに、母のおもかげがよぎる。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その数ヵ月後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。

お線香の煙が芳香を残して、空の中、立ち昇りながら消える・・。

その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。

このように私は、旧来からの『お盆の日』を迎えているので、
8月1日のこの日は、朝の8時過ぎには外出する準備を家内と共にするのが、
毎年の習わしとなっている・・。


下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする