夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

作家・庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の数々の発刊された本、古本屋で見かけて・・。【下】

2011-08-27 16:40:11 | 真摯に『文学』を思考する時
【・・この頃の私は独身であった上、アルバイトをしながら文学青年の真似事をしていたせいか、
社会人の一員にも中途半端な身でもあった。
こうした体験をしていたいか、夫婦の機敏な深淵を描いた『静物』(1960年)の作品は、うわべしか理解していなく、
作者自身が練馬区の住宅街から東京郊外の多摩丘陵に新居を構え、その周辺の情景、
家族がこの地に馴染んでいく牧歌的うつろいの『夕べの雲』(1965年)に素直に魅了されたのである。

しかし私は庄野潤三氏の文学には、この程度であり、
むしろ同じ第三の新人と称される遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎、北杜夫などの各氏の文学作品に魅せられる方が多く、
他の世代の作家の数多い作家に圧倒的に魅了されていた。


私は1970(昭和45)年の春、ある民間会社の大手に何とか入社できて、
文学青年の真似事を断念して、遅れた社会人として私なりに清進した。

私はサラリーマンをしていたが、ときおり他の作家の小説、随筆を本屋で見かけると、
購入して読んだりしていた。

1988(昭和63)年の春、本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
私は読みながら強く魅せられたのである。
作者のあとがきの後半にに明記されている通り、
《・・
「インド綿の服」が『群像』に載ったのが昭和56年10月で、
「足柄山の春」が昭和62年10月だから、まるむ6年たった。

長女一家が南足柄市へ越して行ったのは「インド綿の服」の出る前の年の春であるから、
長女一家からいえば、雑木林のなかの家で新しい環境に馴染みながら過した最初の7年間の生活が物語の背景となっている。
はじめは夫婦と三人の子供で出発したものが、途中から子供となった。

             昭和62年12月      
                         庄野潤三
・・》
注)作者の原文にあえて改行を多くした。


作者のご夫妻が、ご長女一家が南足柄市の雑木林の多い中で、新居を構えて、
たくましく日々を過ごされるを交流を描写されるのであるが、
私はご長女の感性に魅せられたのである。

そして作者自身が多摩丘陵で新居の生活をはじめた昭和30年代のなかば頃と思いを重ねて、
私も1978〈昭和53)年の春に実家の近くに新居を構え、苦楽の日々も体験したので、
ご長女一家の日々を秘かに応援団のような心情となり、
心酔しがら精読したのである。

この後、私は庄野潤三氏の本を見かけるたびに、購入し、愛読したのである。

私は1988(昭和63)年の春、40代のなかば、
本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
ほほ20年ぶりに庄野潤三氏の作品に読みながら、強く魅せられたのである。

この後の私は、『世をへだてて』(1987年)、『誕生日のラムケーキ』(1991年)、『鉛筆印のトレーナー』(1992年)、
『さくらんぼジャム』(1994年)、『貝がらと海の音』(1996年)、『ピアノの音』(1997年)、
『せきれい』(1998年)、『野菜讃歌』(1998年)、『庭のつるばら』(1999年)、
『鳥の水浴び』(2000年)、『山田さんの鈴虫』(2001年)、『うさぎのミミリー』(2002年)、
『孫の結婚式』(2002年)、『庭の小さなばら』(2003年)、『メジロの来る庭』(2004年)などを愛読して、
サラリーマンを定年退職したのである。


『インド綿の服』を読んだ後の私は、『世をへだてて』の単行本にめぐり逢え、
庄野潤三氏の病院内の闘病、その後のリハリビを過ごされる状況を精読しながら、私の人生観に影響を受けたりした・・。

この単行本の帯に明記されているが、

《突然襲った左半身麻痺・・
 脳内出血の大病を克服してここに綴る

 生と死をさまよう中での
 幻想と幻覚
 そして
 よみがえる生命への歓びと
 新たな観想  》

と記載されて概要であるが、もとより作者の当人の想い、奥様、
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家の暖かな支援と思い、
病室で共に闘病した人たち、担当医師・・
こうした交流が静流の中で、圧倒的な熱い思いが伝わってくるのである。

その後の『誕生日のラムケーキ』以降の作品には、
老いていく自身と苦楽を共にされた奥様の淡々とした日常生活・・
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家との情愛、
ご近所の方たちの交流が描写・・

私は遠い親戚の一族を見るような思いで、この人生の歳月の流れを感じたり、
思いを馳せたりし、
私にとっては、まぎれなく人生の教科書と愛読したのである。

人生は労苦が多く、ほんの安息な日々を享受し、それぞれの生きがいを
その人なりに見出していくのであるが、
私は定年後の人生の指針として、庄野文学から多く教示させられたのである。


私は庄野潤三氏のご逝去の知り、私の二十歳過ぎから読んだ庄野作品を思い浮かべて、回想したのであるが、
私は父親を小学二年の時に死去されたので、庄野潤三氏の人生に思いを馳せると、慈父のような存在の人であった、
と確信を深めたりしている・・。


私は氏のご冥福を祈りながら、
少なくとも『静物』、『夕べの雲』、そして『インド綿の服』、『世をへだてて』を読み、
愛惜のひとときを過ごそうとしている。
・・】

このように私は庄野潤三氏のこ逝去を知り、投稿していた。


私は作家の死を知るたびに、その作家の遺(のこ)された作品は、
愛読者から心の片隅に永遠に残るものである、と深く思っているひとりである。

こうした私の思いは、創作者の作家としての立場からも、
敬愛している作家の曽野綾子(その・あやこ)さんが、
読売新聞の『時代の証言者』に於き、曽野綾子さんご自身の連載25回目の最終の結びに、
《・・文学碑や文学記念館は私の好みじゃない。
作品が1冊か2冊、誰かの心に記憶されれば望外の光栄です。・・》
と作家としての名言を2010〈平成22〉年9月27日の朝刊の紙上で発言されている。

私は作家としての曽野綾子さんの信条を、そうですよねぇ、と好感している。


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作家・庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の数々の発刊された本、古本屋で見かけて・・。【上】

2011-08-27 12:24:37 | 真摯に『文学』を思考する時
私は昨日の日中、ある駅前のスーパーに買い物に出かけた。
この駅前に近い商店街の脇道の奥まった所に、古本屋があると知ったのは、
三週間前で、いずれ訪ねてみょうとしていた店であった。

私は遅ればせながら高校時代に読書に圧倒的に魅せられて、
50年は過ぎているが、年金生活の今も読書が最優先の趣味となっている。

こうした中で、本屋の単行本、文庫新書本、文庫本を眺めて購読したり、
ときには古本屋に行き、読んでみたい本に偶然にめぐり逢えた時は、
小躍(こおど)りしたくなる心情を持つことが多いのである。

このように何か良き本はないかしら、と心に秘めて、古本屋に入店した。
文藝評論、小説、近現代史などの本が多い中、
偶然に亡き作家の庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の単行本が8冊並んでいて、
私は懐かしげに背文字のタイトルを見つめたりした・・。

そして庄野潤三氏の愛読者のひとりが、古本屋に放出されたのかしら、
と思ったりした。


帰路、長い下り道を歩きながら、作家・瀬戸内寂聴さんが、
何10年前に作家・円地文子さんから、
作家は生きている時だけよ・・亡くなってしまったら数年で忘れられるわよ、
と言われた、と私は何かの文藝雑誌で読んだことを思い重ねたりした・・。

私は帰宅後、庄野潤三氏の遺された数多くの作品に思いを馳せながら、
2009年9月24日に、このサイトに於いて、
【 敬愛していた作家・庄野潤三氏が逝去されて・・。】
と題した投稿文を読み返したりした・・。


【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
一昨夕、敬愛しているひとりの作家の庄野潤三氏が逝去されて、
呆然となり、とうとうお亡くなりなった、と心情にかられた・・。

この後、ネットで時事通信社、毎日新聞社、産経新聞社を読んだり、
昨日の朝は読売新聞の朝刊も読んだりしたのである。

私は庄野潤三氏の逝去ニュースに関しては、
毎日新聞社の基幹ネットの【毎日jP】が最も好感したので、
無断であるが、掲載させて頂く。

《・・
       訃報 作家、庄野潤三さん死去 88歳

9月22日15時34分配信 毎日新聞

「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、
「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日、老衰のため死去した。
88歳。

(略)

大阪市生まれ。九州帝大東洋史学科卒業後、海軍予備学生として出征。
復員後、島尾敏雄らと同人誌を創刊した。
中高教師、朝日放送勤務などのかたわら「舞踏」「恋文」などを発表。
1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。
詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。
その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など
人生の機微を追求する家庭小説を書いた。
一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、
脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。

90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。
それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。
「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

父貞一さんは帝塚山学院を創設した教育者。児童文学作家の庄野英二さんは実兄。78年に日本芸術院会員になった。

▽作家、阿川弘之さんの話
 従来の私小説とは微妙に異なる、清純な家庭小説を多く書いた。
 子や孫を大事にする作風が心に残っている。やるべき仕事をやり終えた一生だったと思う。

▽女優、大浦みずきさんの話
 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、
 もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。
 いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。
 本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。
 心よりご冥福をお祈りします。

最終更新:9月23日0時49分
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私が庄野潤三氏の作品を初めて読んだのは、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の頃である。
文学青年の真似事をしていたので、遅ればせながら、
『愛撫』(1953年)、『プールサイド小景』(1955年)、『結婚』(1955年)、
『ザボンの花』(1956年)、『ガンビア滞在記』(1959年)、『静物』(1960年)、『浮き燈台』(1961年)などを読んだりしていたのである。

この後、講談社から『われらの文学』と命名された全22巻の文学全集が、
1966(昭和41)年に刊行されて、
私は《声価高まる「若い」文学全集》と称せられたこの『われらの文学』を愛読していた。

庄野潤三氏の作品が配本されたのは、翌年の3月15日に於いて、
『われらの文学 13 庄野潤三』と刊行されて、私も精読したひとりである。

そして、私は改めて、庄野潤三氏の作品、
『静物』、『夕べの雲』(1965年)、『愛撫』、『プールサイド小景』、『相客』、『道』(1962年)、
『鳥』(1964年)、『秋風と二人の男』、『ガンビア滞在記』(1959年)を読んだりした。

そして、文藝評論家・江藤淳(えとう・じゅん)氏が解説を書かれていたので、
読みながら私は動揺したのである。

《・・
庄野潤三氏り文学の特質は「不安」である。
そして氏の技法の中核をなすものは「暗示」、もしくは「象徴」という手法である。
このふたつの交点から、光によって表現される闇、
もっとも日常的な描写によって表現される形而上的な虚無、
誰でもが体験している時間を横切る永遠、
といったような要素で組み立てられている氏の小説が生まれる。
・・
(略)
・・》
注)解説の原文をあえて改行を多くした。


私は江藤淳氏のこの解説の最初の部分を読みながら、
私なりにの読み込んだ庄野潤三氏の文学を、いかに浅かったかを思い知らされたのである。

・・】

                         (つづく)

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