私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、年金生活の67歳の身であり、
昨日は小雪が舞い降る朝を迎え、小庭の樹木の枝葉は雪化粧となり、
地上の黒土にはうっすらと積もり、昼下がりまで降り続けて、
積雪は5センチぐらいとなったりした・・。
そして月末だったことに気づき、2月も余りにも早く過ぎ去り、
ぼんやりと2月のメモ帳を見たりしていた。
たまたま1月28日より6泊7日で、札幌の郊外のリゾートホテルに滞在して、
観光地、名所の5か所ばかり訪れ、帰宅したのは2月3日であった。
そして、『所得税の確定申告書』を作成して、送付したりしていた。
その後は、早春の樹木、花木が気になり、野川の遊歩道を独りで散策したり、
家内を誘って、この野川の遊歩道の上流を3キロを歩いたりして、
神代植物園を3度ばかり訪れて、早春の情景に心を寄せたりしてきた。
今年は寒気が多かった為に、梅園も平年より数週間遅れでの情景となり、
大半は大きく膨らんだ莟〈つぼみ〉で、早咲きの梅だけは咲き始めて、
早春の匂いを漂(ただよ)わせていた・・。
我が家の玄関庭にある白梅は、26日の日曜日に咲き始めて、昨日は20数輪ばかんり咲き、
主庭は日本水仙が咲き、白梅は大きな莟〈つぼみ〉、紅梅は固い莟〈つぼみ〉、
藪椿(ヤブ・ツバキ)は紅色の大きな莟となっているが、
やはり平年より数週間は遅れている、と私は微苦笑してきた。
この間、定年後に自主的に日常の買い物専任者となった私は、
いつものように家内からの依頼品に基づいて、スーパー、ドラッグストアーなど行ったり、
本屋に寄ったりして、私が店頭で魅せられた本を買い求めたりしてきた。
私が購読する本の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などであり、
読書に目覚めたのは遅ればせながら高校生になった時であり、
これ以来は活字中毒のひとりとして、早や50年は過ぎている、と微苦笑する時もある。
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともあった。
このように2月も過ぎ去ってしまえば、実に早い、と溜息をしたりした。
今朝、2月の『如月(きさらぎ)』のカレンダーに、
さよならと過ぎ去った日々に、愛惜を秘めながら別れを告げ、
3月の『弥生(やよい)』に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶ)やいていた・・。
古来より、この3月の季節は『花月(かげつ)』、『夢見月(ゆめみつき)』、『嘉月(よみしづき)』などと、
美麗な言葉を重ねて、春色の季節を迎えてきた。
私は齢ばかり重ねた高齢者3年生で、無念ながら体力の衰えた身であるが、
感性だけは確かな大人の40代のような心情を目標に過ごしている。
このような私であるので、『花見月』、『花咲月』、或いは『櫻月』の愛称を
秘かに好感しているひとりである。
そしてこの時候としては、早春、浅春、春色、春暖、春情、孟春、麗日などと古人から伝承されているが、
私は麗日という言葉に圧倒的に魅了されている。
挨拶の用語としては、《 春はまだ浅いこの頃 》、《 ようやく春めき和(なご)やかなる季節は 》、
《 空の気配も春も感じて 》、《 春光天地に満ちて 》、《 一雨ごとの暖かさに 》、
《 春眠あかつきを覚えず 》、《 小川の水もぬるみ 》、《 柳の緑は日毎に色めき 》、
《 遠山は紫にかすみ 》
こうした綴りを古人の人々から愛用されてきたが、
その日の天候、地域、心の思いによって差異があるので、私なりに使い分けている。
この時節、我家の小庭は、平年であるならば、白梅、紅梅の花は散り始め、
白玉椿(シラタマ・ツバキ)は咲き続け、そして群生させた日本水仙も咲いている。
そして、蕗の薹(フキノトウ)もあちらこちに芽を出したりしている。
葉を落として裸樹となった紫木蓮(シモクレン)は莟(つぼみ)となり、
花梨(カリン)は芽吹き始めている情景となっている。
しかしながら今年は、寒気の為に数週間遅れとなっているので、
待ち焦がれた季節となる。
この時節は古人より、樹木、草花が盛んに生い育つ時節を『弥生』と称しているが、
私は雑木の芽吹き、そして幼い葉を広げる光景が何より好きである。
こうした情景を眺めながら、浅春の花を見つめたりし、
3月の下旬に櫻の花に出逢えれば、私はこれ以上望むことはない。
このように、私は毎年、3月の日々を、
陽射しは優(やさ)しい光を帯び、微風は甘く感じられたりし、
早春からはじまり春色に染められる情景と共に過ごしている。
こうした心情で定年退職後の7年を過ごしてきた私は、
昨年の3月11日の東日本震災と福島原発には、無力な私でも動顚しながら、
心の片隅に深い痛手が、今でも残ったりしている。
敬愛しているノンフィクション作家の佐野眞一〈さの・しんいち〉氏の最近読んだ
『劇薬時評 ~テレビで読み解くニッポンの了見~』(筑摩書房)の中の一節を引用すれば、
《 津波と放射能洪水は、従来の常識をすべて押し流した 》
こうした明記されたことを私は、心の根底に秘めながら、
新たなる新生の3月を迎えようとしている。
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昨日は小雪が舞い降る朝を迎え、小庭の樹木の枝葉は雪化粧となり、
地上の黒土にはうっすらと積もり、昼下がりまで降り続けて、
積雪は5センチぐらいとなったりした・・。
そして月末だったことに気づき、2月も余りにも早く過ぎ去り、
ぼんやりと2月のメモ帳を見たりしていた。
たまたま1月28日より6泊7日で、札幌の郊外のリゾートホテルに滞在して、
観光地、名所の5か所ばかり訪れ、帰宅したのは2月3日であった。
そして、『所得税の確定申告書』を作成して、送付したりしていた。
その後は、早春の樹木、花木が気になり、野川の遊歩道を独りで散策したり、
家内を誘って、この野川の遊歩道の上流を3キロを歩いたりして、
神代植物園を3度ばかり訪れて、早春の情景に心を寄せたりしてきた。
今年は寒気が多かった為に、梅園も平年より数週間遅れでの情景となり、
大半は大きく膨らんだ莟〈つぼみ〉で、早咲きの梅だけは咲き始めて、
早春の匂いを漂(ただよ)わせていた・・。
我が家の玄関庭にある白梅は、26日の日曜日に咲き始めて、昨日は20数輪ばかんり咲き、
主庭は日本水仙が咲き、白梅は大きな莟〈つぼみ〉、紅梅は固い莟〈つぼみ〉、
藪椿(ヤブ・ツバキ)は紅色の大きな莟となっているが、
やはり平年より数週間は遅れている、と私は微苦笑してきた。
この間、定年後に自主的に日常の買い物専任者となった私は、
いつものように家内からの依頼品に基づいて、スーパー、ドラッグストアーなど行ったり、
本屋に寄ったりして、私が店頭で魅せられた本を買い求めたりしてきた。
私が購読する本の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などであり、
読書に目覚めたのは遅ればせながら高校生になった時であり、
これ以来は活字中毒のひとりとして、早や50年は過ぎている、と微苦笑する時もある。
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともあった。
このように2月も過ぎ去ってしまえば、実に早い、と溜息をしたりした。
今朝、2月の『如月(きさらぎ)』のカレンダーに、
さよならと過ぎ去った日々に、愛惜を秘めながら別れを告げ、
3月の『弥生(やよい)』に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶ)やいていた・・。
古来より、この3月の季節は『花月(かげつ)』、『夢見月(ゆめみつき)』、『嘉月(よみしづき)』などと、
美麗な言葉を重ねて、春色の季節を迎えてきた。
私は齢ばかり重ねた高齢者3年生で、無念ながら体力の衰えた身であるが、
感性だけは確かな大人の40代のような心情を目標に過ごしている。
このような私であるので、『花見月』、『花咲月』、或いは『櫻月』の愛称を
秘かに好感しているひとりである。
そしてこの時候としては、早春、浅春、春色、春暖、春情、孟春、麗日などと古人から伝承されているが、
私は麗日という言葉に圧倒的に魅了されている。
挨拶の用語としては、《 春はまだ浅いこの頃 》、《 ようやく春めき和(なご)やかなる季節は 》、
《 空の気配も春も感じて 》、《 春光天地に満ちて 》、《 一雨ごとの暖かさに 》、
《 春眠あかつきを覚えず 》、《 小川の水もぬるみ 》、《 柳の緑は日毎に色めき 》、
《 遠山は紫にかすみ 》
こうした綴りを古人の人々から愛用されてきたが、
その日の天候、地域、心の思いによって差異があるので、私なりに使い分けている。
この時節、我家の小庭は、平年であるならば、白梅、紅梅の花は散り始め、
白玉椿(シラタマ・ツバキ)は咲き続け、そして群生させた日本水仙も咲いている。
そして、蕗の薹(フキノトウ)もあちらこちに芽を出したりしている。
葉を落として裸樹となった紫木蓮(シモクレン)は莟(つぼみ)となり、
花梨(カリン)は芽吹き始めている情景となっている。
しかしながら今年は、寒気の為に数週間遅れとなっているので、
待ち焦がれた季節となる。
この時節は古人より、樹木、草花が盛んに生い育つ時節を『弥生』と称しているが、
私は雑木の芽吹き、そして幼い葉を広げる光景が何より好きである。
こうした情景を眺めながら、浅春の花を見つめたりし、
3月の下旬に櫻の花に出逢えれば、私はこれ以上望むことはない。
このように、私は毎年、3月の日々を、
陽射しは優(やさ)しい光を帯び、微風は甘く感じられたりし、
早春からはじまり春色に染められる情景と共に過ごしている。
こうした心情で定年退職後の7年を過ごしてきた私は、
昨年の3月11日の東日本震災と福島原発には、無力な私でも動顚しながら、
心の片隅に深い痛手が、今でも残ったりしている。
敬愛しているノンフィクション作家の佐野眞一〈さの・しんいち〉氏の最近読んだ
『劇薬時評 ~テレビで読み解くニッポンの了見~』(筑摩書房)の中の一節を引用すれば、
《 津波と放射能洪水は、従来の常識をすべて押し流した 》
こうした明記されたことを私は、心の根底に秘めながら、
新たなる新生の3月を迎えようとしている。
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