過ぎし10日前、私は本屋に寄った時、新書コーナーに於いて、
宗教学者・作家として名高い島田裕巳(しまだ・ひろみ)氏の著作された『神も仏も大好きな日本人』(ちくま新書)を見かけ、
思わず微苦笑させられた。
私はここ数年、氏の『平成宗教20年史』(幻冬舎新書)、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を購読し、
多々教示され、好感している著作人のひとりとなっている。
『神も仏も大好きな日本人』は、《 日本古来の神道と外国から伝わった仏教。
両者はお互いに影響しあい、日本独自の混合宗教となって・・》
と解説に明記されていたので、私の生家を思い浮かべ、微苦笑させられたりした。
私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。
母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。、
この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに小さな神棚が備えられいた。
そして生家から程遠くない所に神社とお寺があった。
陵山と言われる少しばかり小高い丘陵があり、仲良く二分化され、
低い処にはお寺となり、高いの所には神社であった。
神社は『糟嶺神社』と命名されて、後年に私は、農業の神様の糟嶺大神を祀っている、
と知ったりした。
そしてお寺は『明照院』と称されて、やはり後年に、
16世紀の中頃に開かれた天台宗のお寺で、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、
と私は学んだりした。
この当時の幼年期の私は、神社で初詣、節分の時は豆まき、秋のお祭りの会場となったり、
お寺では幼稚園がなかった当時で託児所、そして夏には境内でラジオ体操、
ある時は野外の映画が上映されたりしていた。
生家の墓地は、この当時は生家の近くにあり、この地域の住む方たちの墓地であり、
ある地主のご厚意で借地された場所であった。
この当時は土葬となっていて、私が小学2年の時に父が病死されて、
生家でお通夜、告別式の葬儀、そして墓地で埋葬したのを私は少し心の片隅に残っている。
その後、この墓地は1960〈昭和35〉年の頃に解消され、
生家は曹洞宗であるので、本来の程遠い『泉龍寺』に母は移して、今日に至っている。
このように生家も日本の各地に数多くある神様と仏様の仲良くしている混合宗教であり、
違和感なく私は育ってきた。
その後、高校生の頃に歴史に興味を始めた頃は、
明治新政府の方針で強制的に分離され、神様が主役となり、
お寺の仏像などが粗末に扱われる風潮を学んだりして、少し悩んだりした時もあったりした。
そして現在、三男坊の私は生家の近くに住み、
長兄は生家を跡継ぎを順調にし、この実家も新築されて50年近くになっているが、
この家族の居間のようになっている和室には、仏壇と神棚が、仲良く同居している。
分家のようになった我が家は、神棚を設けず、お札を頂いた時は失礼にならないように、
居間の飾りケース棚に入れている。
そして仏壇は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったため、無縁となっている。
私たち夫婦は、神も仏も特に関心はないが、お彼岸、お盆の時は先祖や両親に感謝して、
お墓詣りをしている。
そして神社やお寺に出逢ったりした時は、手を合わせたりしている。
ここ20年近く、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。
私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。
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宗教学者・作家として名高い島田裕巳(しまだ・ひろみ)氏の著作された『神も仏も大好きな日本人』(ちくま新書)を見かけ、
思わず微苦笑させられた。
私はここ数年、氏の『平成宗教20年史』(幻冬舎新書)、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を購読し、
多々教示され、好感している著作人のひとりとなっている。
『神も仏も大好きな日本人』は、《 日本古来の神道と外国から伝わった仏教。
両者はお互いに影響しあい、日本独自の混合宗教となって・・》
と解説に明記されていたので、私の生家を思い浮かべ、微苦笑させられたりした。
私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。
母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。、
この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに小さな神棚が備えられいた。
そして生家から程遠くない所に神社とお寺があった。
陵山と言われる少しばかり小高い丘陵があり、仲良く二分化され、
低い処にはお寺となり、高いの所には神社であった。
神社は『糟嶺神社』と命名されて、後年に私は、農業の神様の糟嶺大神を祀っている、
と知ったりした。
そしてお寺は『明照院』と称されて、やはり後年に、
16世紀の中頃に開かれた天台宗のお寺で、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、
と私は学んだりした。
この当時の幼年期の私は、神社で初詣、節分の時は豆まき、秋のお祭りの会場となったり、
お寺では幼稚園がなかった当時で託児所、そして夏には境内でラジオ体操、
ある時は野外の映画が上映されたりしていた。
生家の墓地は、この当時は生家の近くにあり、この地域の住む方たちの墓地であり、
ある地主のご厚意で借地された場所であった。
この当時は土葬となっていて、私が小学2年の時に父が病死されて、
生家でお通夜、告別式の葬儀、そして墓地で埋葬したのを私は少し心の片隅に残っている。
その後、この墓地は1960〈昭和35〉年の頃に解消され、
生家は曹洞宗であるので、本来の程遠い『泉龍寺』に母は移して、今日に至っている。
このように生家も日本の各地に数多くある神様と仏様の仲良くしている混合宗教であり、
違和感なく私は育ってきた。
その後、高校生の頃に歴史に興味を始めた頃は、
明治新政府の方針で強制的に分離され、神様が主役となり、
お寺の仏像などが粗末に扱われる風潮を学んだりして、少し悩んだりした時もあったりした。
そして現在、三男坊の私は生家の近くに住み、
長兄は生家を跡継ぎを順調にし、この実家も新築されて50年近くになっているが、
この家族の居間のようになっている和室には、仏壇と神棚が、仲良く同居している。
分家のようになった我が家は、神棚を設けず、お札を頂いた時は失礼にならないように、
居間の飾りケース棚に入れている。
そして仏壇は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったため、無縁となっている。
私たち夫婦は、神も仏も特に関心はないが、お彼岸、お盆の時は先祖や両親に感謝して、
お墓詣りをしている。
そして神社やお寺に出逢ったりした時は、手を合わせたりしている。
ここ20年近く、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。
私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
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