夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『結婚記念日』を迎え、あの日を思い馳せれば、独り微苦笑を重ねて・・。 《下》

2012-03-30 15:37:01 | 定年後の思い
結婚式場の学士会館に3時半過ぎに着き、私たちは指定された控え室に行き、
まもなく長兄と義姉の夫婦と子供ふたりと長兄の自動車に同乗してきた母の姿も見え、
少しばかり家族間で談笑したりした。

その後、私は着付け室に移動した。
結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。

私はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けたことは少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。

『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・
黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。

このようなこともあり、式場の着付け室で、
私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性が着付けをはじめてくれた。

私の父は小学生の2年の時に死去されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。

長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄様・・良いお召し物で・・
やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性の方は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
長兄は旧家であったので、日頃から着慣れて折、高価な紋付の羽織と袴を持っていたのである。

私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。

しばらくすると、長兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、
私の方は誰もいなくなった。

『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性達に聴こえる程度の小声で私は言った。

『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。

『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・
でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が言った。

この当時の私は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。

その後、私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。

着付けが終わると、私を鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。

私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)め倒されていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は長兄に大きな声で言った。


この後、私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列する新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
指定の4時45分に結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・、
と改めて思いながら緊張した。
そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした。

この後、披露宴が始まる6時まで、披露宴の控室にいる友人と談笑したり、上司に挨拶したり、
祖父の代からの交際のある近所の小父さんなどに挨拶していると、
披露宴の進行担当者から、控室に戻るように私は言われたした。

そして私たち夫婦は披露宴の会場に向った・・。
その後は媒酌人の挨拶、主賓の祝辞を頂いたり、各テーブルにキャンドルの点火をしたりした後、
私たちは、それぞれ色直しで退場した。

私は苦手な羽織、袴から黒の礼服に着替え、ほぼスーツと変わらないので、
平常心となり、
まもなく愛しい新妻と逢えば、水色のロングドレスとなり、
お似合いだょ、と私は言ったりし、余裕さえあった。

この後も、数多くの来賓の方たちから祝辞を受けながら、
私は照れ臭いので、お酒を吞みながら、料理も盛んに食べたりしていた。
そしてボーイさんは、私の空になった徳利、料理皿を見て、
次から次へと新たなる徳利、料理皿を持参してくれ、私は積極的に吞み、食べたりした。

横にいる新妻は、余り食べていないようで、ボーイさんが次の料理皿を待ちかねているようで、
私は下(さ)げて良いですよ、というしぐさをした後、ボーイさんは安堵しながら皿を下げて、
新たな料理を新妻の前に置いたりした。

こうして余興、祝電を受けたり、花束記念品を私たち夫婦は、それぞれの母に捧げたり、
長兄が両家の代表謝辞を述べたり、友人のひとりが司会をして下さったので、
お開きの辞を述べたりしたのが確か8時半過ぎであった。

そして私たち夫婦と親は、出席して下さった人が退場するのに、御礼を述べながら見送ったりした。

この後、私は新たなるプレイザー姿に着替えて、
学士会館前で私の友人、新妻の友人と談笑をした後、宿泊先のニューオータニに向った。
車中で、誰でも主役になれるのは、誕生、そして結婚式、最後の死去する時、
と改めて実感させられながら、当人が意識できるのは結婚式だなぁ、と思ったりした。

ニューオータニの指定された室に入った後、
疲れたでしょう、と私は新妻に言ったりした。
そして私は風呂に入った後、新妻が入浴している間、
窓辺に近い椅子に座りながら、ビールを吞み、都心の夜景を見たりした。

その後は、初めて新妻と性愛を深く交わした後、この日のこぼれ話しをしたりし、
まもなく私たちは寝付いた。

深夜、私は目覚めると、新妻は窓辺に近い椅子に座りながら、バナナを食べていた。
私はぼんやりと近づくと、
『お腹がすいたの・・あなた披露宴の席上のお料理・・ゆっくり食べようとしていたら、
あなたの指示でボーイさん下げてしまったじゃない・・』
と家内は微笑みながら私に苦言した。


このような結婚式、そして披露宴の当日の日を途切れ途切れに私は思いだしながら、
あの日から36年過ぎたのか、独り微苦笑した。


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『結婚記念日』を迎え、あの日を思い馳せれば、独り微苦笑を重ねて・・。 《上》

2012-03-30 11:54:52 | 定年後の思い
今朝の5時過ぎに、私は目覚めたが、まどろみながら30分過ぎた頃、
布団から抜け出して、2階の寝室から1階のトイレでオシッコした後、洗面した。

そして寝室に戻ると、隣に寝ていた家内が目覚めたらしく、
私は自分の布団の上に正座して、
『おかげさまで・・無事に36年が過ぎて、37年目の春を迎えることが出来ました。
今後もよろしく叱咤激励の程を・・』
と私は家内に言ったりした。

ぼんやりとしていた家内は、
『あらぁ・・今日、結婚記念日だったかしら』
と家内は呟(つぶや)くように私に言った。

私たち夫婦は、遠い昔の1976〈昭和51〉年の本日に結婚し、
過ぎし日々の大波、小波に揺られながらも、何かと家内に叱咤激励されながらも、
今日を迎えることができたので、ひたすら感謝で私は家内に言ったのである。

朝食後、私は主庭のテラスに下り立ち、
白梅の花が音もなく散り始めている情景を見ながら、ぼんやりと結婚式の当日のことを、
ぼんやりと思い浮かべたりした・・。


この日の朝は、激しく雨が降り、ときおり風が吹く春の嵐のような状況であった。
この当時、小田急線と南武線の登戸の地域で、アパート経営をしていた母宅に私は同居していた。
そして前日まで会社で深夜勤務をしていたので、9時過ぎに風呂に入ったりした。
髪の毛を洗ったり、髭(ひげ)を剃ったりしていると、
夕方の4時45分から結婚式を挙げた後、披露宴は夜の6時であるが、
来て下さる方たちに余りにも悪天候なので、申し訳なく思い重ねたりしていた。

そして私のこれまでの素行が悪かったので、
天上の気候の神々はこのような采配をされたと思い、
今後の結婚生活は大丈夫かしら、と少し不安化でもあった。


私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。
その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
私は小波にもまれたりした。

この中のひとつとして、結婚式の後の披露宴は夜6時からであった。
秋季の土、日曜日の日中にすれば良いのに、と母や長兄、次兄から言われたりした。
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、秋には軌道する予定であったが、
新たなる新年度の4月から新妻と寝食を共にし、桜の樹の下で散策することを私はこだわっていたので、
結婚式場の学士会館の空白は、3月の最終一週間としては、この日しか空いていなかったのである。


調布市の片隅みに住んでいる長兄宅に集合した後、
先発隊として私は次兄の運転する自動車で末妹と共に3人で、
小降りなった中、都心の結婚式場の学士会館に向った。
そして首都高速道路から、シティ・ホテルのニューオータニが観え、
あすこに今晩泊まるのかょ、とぼんやりと思いながら、
披露宴に来て下さる方たちのひとりひとり、思い重ねたりしていた。

                              《つづく》
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