私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
13面の【文化】欄に日曜日の特集記事のひとつとして、『本のソムリエ』を思わず読んでしまった。
この『本のソムリエ』の主旨は、《汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)で博覧強記な回答者陣が
韋編三絶(いへんさんぜつ)のうえ、森羅万象の悩みを快刀乱麻かつ誠心誠意、全身全霊で質疑に応答します。》
と格調高く掲げられた質疑回答となっている。
今回はふたつの質疑があったが、《料理作る楽しさ教えて》と見出しされた質疑に関し、
汗牛充棟で博覧強記な回答者としては、誰かしら、と私は少し思い浮かべた。
そして回答者は、作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)と明記されていたので、
やはり現世の作家の中から、料理に関しては、この方が圧倒的に突出している第一人者であり、
数多くの本も上梓され、私も多々教示を受けたりしてきたので、最適任者と確信したりした。
嵐山光三郎氏は、1965(昭和41)年に國學院大學文学部国文科卒業され、専攻は中世文学であり、
在学中の講師として丸谷才一、安東次男らに学んだひとりである。
この直後、平凡社に入社されて、編集者として奮闘されながら、
やがて『別冊太陽』と『太陽』のそれぞれ編集長に抜擢された後、
この後は、散漫経営のため平凡社が経営危機となった1981(昭和56)年に退社され、
出販社を設立されたりする中で、編集者、作家としてもご活躍された。
この後は、 1987(昭和62)年に『素人庖丁記』で翌年に第4回講談社エッセイ受賞、
その後も俳諧の分野も含めて、多彩に本を上梓されている。
私は氏の数多くの本を読んできたが、料理に関しては、
『 文人悪食』(新潮文庫),『 文人暴食』(新潮文庫)の2冊だけでも読めば、
それぞれの料理の時代の変貌してきた味を検証して食べ歩き、
その時代に活躍された作家たちが、どのような料理を好まれたか、
明晰に作家の作品を根底に描いた力作である。
こうした稀な方の嵐山光三郎氏が、今回の質疑にどのように回答するか、
私は興味して、読んだりした・・。
壇 一雄・著作の『壇流クッキング』(中公文庫)に於いては、
《・・
放浪作家がつくる料理は豪快で楽しく、本から、おいしい匂いがたちのぼってくる。
いまの季節ならタケノコの竹林焼き。
(略)
壇さんにこれを作ってもらって九州の山で食べたときは、
醤油のこげた匂いで腰までふるえました。》
私はこの本は未読であるが、生前の壇 一雄(だん・かずお)氏のご自宅に於いて、
台所の近くの大きな食卓で、亡き作家の立原正秋(たちはら・まさあき)氏が招待されて、
奥様の手料理を味わいながら、お互いに料理好きな両氏が談笑する写真を思い重ねたりした。
この後は、水上 勉・著作の『土を喰(くら)う日々』(新潮文庫)を採りあげられいた。
《・・
軽井沢の畑でとれた野菜を自ら料理したもので写真入り。
1月から12月の章までの「わが精進12カ月」である。
水上さんは少年のころ、京都の禅寺で精進料理の作り方を教えられた。
3月はリンゴセロリサラダ。
(略)
このサラダを水上さんに食べさせてもらったときは、下にレタスが敷いてあった。
シャキっとして歯ごたえで、すずやかな禅味がある。》
私はこの本を幾たびか精読している。
私の幼年期は農家の児として育ったので、殆どこの本に書かれている素材は知っているが、
無念ながら料理に素養のない私は、ときおり家内に作ってもらっている。
たとえば、蕗(ふき)の薹(とう)もひとつである。
私の幼年期は、祖父と父が中心となって小作人だった人のご厚意を借りて、
田畑を耕していて農業を営んでいた・・。
2月頃に宅地の外れに蕗の薹を見かけたりしていたが、
取り残した蕗の薹が日増しに大きくなり、4月の頃になると蕗の成長を驚いたりしていた。
祖父、父たちは、蕗の薹などで晩酌をしたりしていたが、
蕗になった料理り数々は、幼児の私には苦手な食べ物のひとつであった。
私は40代の頃は、中小業の民間会社で情報部門に勤務していたので、
4月からの新管理体制など対応で開発・運営などに、
ほぼ毎年早春の頃から多忙な身となっていた。
日曜日に休めればよい期間が多く、睡眠不足もさることながら、
果たして上層部の要請に答えられるか、と必死に面持ちで過ごし奮闘していた。
節分を過ぎた頃の日曜日、
昼前に庭に下り立ち、蕗の薹がわずか地上から、
こんにちは、といった表情で小指の先程度の大きさで、10数個見つけたりした・・。
私は蕗の薹になる前の莟(つぼみ)のような蕗を採り、家内に手渡した。
昼食の前、私は弐合徳利をお燗している時に、
家内に味噌味などで蕗の薹の幼期を簡素に調理して貰い、
私は早春の陽射しの射しこんでる庭を眺めたり、
家内と他愛のない話をしたりして、純米酒を呑んだりしていた。
ほろ苦い蕗味噌を口に含むと、香り、風味はまぎれもなく早春の息吹きを感じながら、
と味わっていたのであった。
昼食後、少し酔った睡眠不足の私は、2時間ばかり昼寝をしたりしていた。
私は定年退職後の年金生活をしている今、
散策をしたりして、ときおり蕗の薹を見かけたりすると、
芭蕉を敬愛し、じきじきに弟子入りに懇願したひとりの俳人の名句が思い出したしている。
思ひ出し 思ひ出し蕗の にがみかな
詠み人・路通
私は江戸時代の前期に残された名句を呟(つぶや)き、微苦笑をしたりしている。
このような蕗に関しては、ささやかな思いを秘めたりしている。
今回の嵐山光三郎氏の結びの文として、
《・・
壇さんも水上さんも本業は小説家で、料理は余技である。
だから読んでいておいしい。
作る途中が楽しい。
自分だけでなく、だれかに作ってあげる、という気持ちがぜい沢なのです。》
このような名文を読みながら、ただ恐れ入りました、
と私は未知の嵐山光三郎氏の本に掲載されていた写真の顔立ちを眩しげに見たりしている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
13面の【文化】欄に日曜日の特集記事のひとつとして、『本のソムリエ』を思わず読んでしまった。
この『本のソムリエ』の主旨は、《汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)で博覧強記な回答者陣が
韋編三絶(いへんさんぜつ)のうえ、森羅万象の悩みを快刀乱麻かつ誠心誠意、全身全霊で質疑に応答します。》
と格調高く掲げられた質疑回答となっている。
今回はふたつの質疑があったが、《料理作る楽しさ教えて》と見出しされた質疑に関し、
汗牛充棟で博覧強記な回答者としては、誰かしら、と私は少し思い浮かべた。
そして回答者は、作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)と明記されていたので、
やはり現世の作家の中から、料理に関しては、この方が圧倒的に突出している第一人者であり、
数多くの本も上梓され、私も多々教示を受けたりしてきたので、最適任者と確信したりした。
嵐山光三郎氏は、1965(昭和41)年に國學院大學文学部国文科卒業され、専攻は中世文学であり、
在学中の講師として丸谷才一、安東次男らに学んだひとりである。
この直後、平凡社に入社されて、編集者として奮闘されながら、
やがて『別冊太陽』と『太陽』のそれぞれ編集長に抜擢された後、
この後は、散漫経営のため平凡社が経営危機となった1981(昭和56)年に退社され、
出販社を設立されたりする中で、編集者、作家としてもご活躍された。
この後は、 1987(昭和62)年に『素人庖丁記』で翌年に第4回講談社エッセイ受賞、
その後も俳諧の分野も含めて、多彩に本を上梓されている。
私は氏の数多くの本を読んできたが、料理に関しては、
『 文人悪食』(新潮文庫),『 文人暴食』(新潮文庫)の2冊だけでも読めば、
それぞれの料理の時代の変貌してきた味を検証して食べ歩き、
その時代に活躍された作家たちが、どのような料理を好まれたか、
明晰に作家の作品を根底に描いた力作である。
こうした稀な方の嵐山光三郎氏が、今回の質疑にどのように回答するか、
私は興味して、読んだりした・・。
壇 一雄・著作の『壇流クッキング』(中公文庫)に於いては、
《・・
放浪作家がつくる料理は豪快で楽しく、本から、おいしい匂いがたちのぼってくる。
いまの季節ならタケノコの竹林焼き。
(略)
壇さんにこれを作ってもらって九州の山で食べたときは、
醤油のこげた匂いで腰までふるえました。》
私はこの本は未読であるが、生前の壇 一雄(だん・かずお)氏のご自宅に於いて、
台所の近くの大きな食卓で、亡き作家の立原正秋(たちはら・まさあき)氏が招待されて、
奥様の手料理を味わいながら、お互いに料理好きな両氏が談笑する写真を思い重ねたりした。
この後は、水上 勉・著作の『土を喰(くら)う日々』(新潮文庫)を採りあげられいた。
《・・
軽井沢の畑でとれた野菜を自ら料理したもので写真入り。
1月から12月の章までの「わが精進12カ月」である。
水上さんは少年のころ、京都の禅寺で精進料理の作り方を教えられた。
3月はリンゴセロリサラダ。
(略)
このサラダを水上さんに食べさせてもらったときは、下にレタスが敷いてあった。
シャキっとして歯ごたえで、すずやかな禅味がある。》
私はこの本を幾たびか精読している。
私の幼年期は農家の児として育ったので、殆どこの本に書かれている素材は知っているが、
無念ながら料理に素養のない私は、ときおり家内に作ってもらっている。
たとえば、蕗(ふき)の薹(とう)もひとつである。
私の幼年期は、祖父と父が中心となって小作人だった人のご厚意を借りて、
田畑を耕していて農業を営んでいた・・。
2月頃に宅地の外れに蕗の薹を見かけたりしていたが、
取り残した蕗の薹が日増しに大きくなり、4月の頃になると蕗の成長を驚いたりしていた。
祖父、父たちは、蕗の薹などで晩酌をしたりしていたが、
蕗になった料理り数々は、幼児の私には苦手な食べ物のひとつであった。
私は40代の頃は、中小業の民間会社で情報部門に勤務していたので、
4月からの新管理体制など対応で開発・運営などに、
ほぼ毎年早春の頃から多忙な身となっていた。
日曜日に休めればよい期間が多く、睡眠不足もさることながら、
果たして上層部の要請に答えられるか、と必死に面持ちで過ごし奮闘していた。
節分を過ぎた頃の日曜日、
昼前に庭に下り立ち、蕗の薹がわずか地上から、
こんにちは、といった表情で小指の先程度の大きさで、10数個見つけたりした・・。
私は蕗の薹になる前の莟(つぼみ)のような蕗を採り、家内に手渡した。
昼食の前、私は弐合徳利をお燗している時に、
家内に味噌味などで蕗の薹の幼期を簡素に調理して貰い、
私は早春の陽射しの射しこんでる庭を眺めたり、
家内と他愛のない話をしたりして、純米酒を呑んだりしていた。
ほろ苦い蕗味噌を口に含むと、香り、風味はまぎれもなく早春の息吹きを感じながら、
と味わっていたのであった。
昼食後、少し酔った睡眠不足の私は、2時間ばかり昼寝をしたりしていた。
私は定年退職後の年金生活をしている今、
散策をしたりして、ときおり蕗の薹を見かけたりすると、
芭蕉を敬愛し、じきじきに弟子入りに懇願したひとりの俳人の名句が思い出したしている。
思ひ出し 思ひ出し蕗の にがみかな
詠み人・路通
私は江戸時代の前期に残された名句を呟(つぶや)き、微苦笑をしたりしている。
このような蕗に関しては、ささやかな思いを秘めたりしている。
今回の嵐山光三郎氏の結びの文として、
《・・
壇さんも水上さんも本業は小説家で、料理は余技である。
だから読んでいておいしい。
作る途中が楽しい。
自分だけでなく、だれかに作ってあげる、という気持ちがぜい沢なのです。》
このような名文を読みながら、ただ恐れ入りました、
と私は未知の嵐山光三郎氏の本に掲載されていた写真の顔立ちを眩しげに見たりしている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村