私は中小業の民間会社を35年ばかり勤め、定年退職したのは2004〈平成16〉年の秋であった。
そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。
私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。
古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。
そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。
私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作のように幾たびか校正することなく、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。
しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。
このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。
このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることもある。
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)の片隅みの農家の三男坊として、
1944〈昭和19〉年の秋に生を受けた。
初めて文字を書いたのは、1951〈昭和26〉年の春に、
地元の小学校に入学したからだった・・。
この当時、私の住む村では、幼稚園が設立したのは確か私が小学校3年頃だったと思う。
私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。
小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。
そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、
この当時に多く利用されていた粗雑な藁〈わら〉半紙で書かされたりした。
この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
この当時も夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。
私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
そして高校二年の夏に、初めて小説の真似事をし、原稿用紙に習作をしたりした。
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。
この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。
そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。
こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。
この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とか音響・映像の大手メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、レコード会社として新設され、
私も異動させられて、管理畑など35年近く勤めて、定年退職時となった。
私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。
或いは私が読書を中学生の初めの頃、5年早く目覚めれば、
文学部の国文学を専攻した、と文学青年の真似事の習作の時、自責をしたりした。
しかしながら、この世はもとより、どの人も人生は2度とない、と古人からの鉄則通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
と遺(のこ)された格言を信じて、今後も随筆らしき散文を綴り投稿したりしている。
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そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。
私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。
古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。
そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。
私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作のように幾たびか校正することなく、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。
しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。
このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。
このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることもある。
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)の片隅みの農家の三男坊として、
1944〈昭和19〉年の秋に生を受けた。
初めて文字を書いたのは、1951〈昭和26〉年の春に、
地元の小学校に入学したからだった・・。
この当時、私の住む村では、幼稚園が設立したのは確か私が小学校3年頃だったと思う。
私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。
小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。
そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、
この当時に多く利用されていた粗雑な藁〈わら〉半紙で書かされたりした。
この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
この当時も夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。
私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
そして高校二年の夏に、初めて小説の真似事をし、原稿用紙に習作をしたりした。
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。
この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。
そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。
こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。
この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とか音響・映像の大手メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、レコード会社として新設され、
私も異動させられて、管理畑など35年近く勤めて、定年退職時となった。
私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。
或いは私が読書を中学生の初めの頃、5年早く目覚めれば、
文学部の国文学を専攻した、と文学青年の真似事の習作の時、自責をしたりした。
しかしながら、この世はもとより、どの人も人生は2度とない、と古人からの鉄則通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
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