私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とかこの当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)の春であった。
音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

☆すべて今回掲載した写真は、一週間前に自宅の付近を散策した時の情景☆
こうした中で中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1998年〈平成10年〉に売上の主軸となるCDがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。
この前後に、それぞれのレコード会社は再構築がよぎなくされ、リストラが具体的に実施された。
私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
公言しなくても暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であった。
そして、もとより若き入社時代から人生設計の主軸として過ごしてきた・・。
こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
この少し前の年から私の勤めた会社も同様に、 組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職などのリストラ烈風となった・・。
このような状況下で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。
やがて私自身も1999年(平成11年)の2月、55歳の少し前に出向となってしまった。
私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、私は出向を命じられた時、改めて家内と私の定年後の第二の人生を話し合ったりした。
具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
私たち夫婦の共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、という事になったりした。
こうしたことを実現するためには、私は各出版社から数多くの本が発売されていたので、購読した。
そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを読んだりした。
或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金などの推定、
そして年金の推定額も算出し、収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。
やがて毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。
こうした中で、最大の難関は私の場合は厚生年金に加入していたので、
厚生年金は『報酬比例部分』と『定額部分』で成り立っている、と知った時である。
たとえば厚生年金の総計を年間で230万円と仮定した場合は、『報酬比例部分』は150万円(65%)、
そして『定額部分』は80万円(35%)となっていた。
この『定額部分』の支給開始時期は、生まれた世代によって差異がある、と学んだりした。
◎1941(昭和16)年4月1日以前の方は・・・60歳から支給。
◎1941(昭和16)年4月2日~1943(昭和18)年4月1日の方は・・・61歳から支給。
◎1943(昭和18)年4月2日~1945(昭和20)年4月1日の方は・・・62歳から支給。
◎1945(昭和20)年4月2日~1947(昭和22)年4月1日の方は・・・63歳から支給。
◎1947(昭和22)年4月2日~1949(昭和24)年4月1日の方は・・・64歳から支給。
◎1949(昭和24)年4月2日~1953(昭和28)年4月1日の方は・・・
『定額部分』は、『基礎年金』に一本化されて65歳から支給。
このように明記されていたので、私は1944年(昭和19年)9月の生まれであるので、
『定額部分』の支給開始時期は、満62歳からと知った。
私は厚生年金に関し、友人たちと『報酬比例部分』は『定額部分』などの合算で、満額と称しているが、
悩ましいのは私の前後だけでも差異があることであった。
私たちの世代は、社会人になった頃の1970年〈昭和45年〉の当時は定年退職時は55歳が多く、
まもなく60歳に改定されてきたので、それぞれ人生設計の基幹としてきた。
そして私は、遅ればせながら、1994年(平成6年)の年金改正に於いて、
60歳代前半の老齢厚生年金の『定額部分』の支給開始年齢を、
2013年(平成25年)までに段階的に60歳から65歳に引き上げがされた、と学んだりした。
その後、2000年(平成12年)の年金改正では、
老齢厚生年金の『報酬比例部分』を2025年(平成37年)までに、段階的に60歳から65歳に引き上げ、と知ったりした。
このような関係で私の場合は、定年退職後の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からであった。
この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となる、と遅ればせながら知った。

そして1941年(昭和16年)4月1日以前の先輩たちは、
もとより『報酬比例部分』、そして『定額部分』の支給開始時は、定年退職の60歳と同時に頂けるので、
いいよなぁ、と私は溜息をつきながら感じたりした。
しかし私の後輩の団塊世代の人たちは、私より『定額部分』の支給開始が遅れて、
この間の生活も大変だよなぁ、と思いを新たにさせられた。
この当時、民間会社の大手、中小業にしても、定年退職時は満60歳が多く、
その後に、単純に現役の処遇で継続できる人は、殆ど皆無である。
こうした現実の中で、定年後の年金満額までの期間をどのように生活するのか、
何よりの最優先の命題、と私は実感させられた。

こうした間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風となる中、
私はサンドイッチのような板ばさみの心情となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このように私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であり、金融資産も程ほどとなり、
何かと多くの方の半生史は自慢史が多い中、つたない私はもとより対象外となっている。

私の定年退職は10月20日であったが、10月初旬に家内の父は病死し、葬儀を終えてまもなく、
退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、慌ただしい日々を過ごしたりした。
こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。
そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方たちの真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したりした。
そして家内の父の死去に伴い、定年退職記念旅行と失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、長らく住んでいる。
そして生家も近く、住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
付近の住宅の敷地より、少し広いかしらと思ったりしている。
こうした中で私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。
世の中の多くの人生の3大支出は、「教育資金」、「住宅資金」、「老後資金」と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。

私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
この間、定年退職の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からの満額となるまで、
この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となり、
予測した以上に赤字となり、小心者は何かと気弱になったりした。
やがて満62歳から満額の厚生年金となり、予定通り年金生活は安定飛行となり、
私たち夫婦は、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としているが、
今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合って、互いに微苦笑したりしている。
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大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とかこの当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)の春であった。
音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

☆すべて今回掲載した写真は、一週間前に自宅の付近を散策した時の情景☆
こうした中で中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1998年〈平成10年〉に売上の主軸となるCDがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。
この前後に、それぞれのレコード会社は再構築がよぎなくされ、リストラが具体的に実施された。
私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
公言しなくても暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であった。
そして、もとより若き入社時代から人生設計の主軸として過ごしてきた・・。
こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
この少し前の年から私の勤めた会社も同様に、 組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職などのリストラ烈風となった・・。
このような状況下で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。
やがて私自身も1999年(平成11年)の2月、55歳の少し前に出向となってしまった。
私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、私は出向を命じられた時、改めて家内と私の定年後の第二の人生を話し合ったりした。
具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
私たち夫婦の共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、という事になったりした。
こうしたことを実現するためには、私は各出版社から数多くの本が発売されていたので、購読した。
そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを読んだりした。
或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金などの推定、
そして年金の推定額も算出し、収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。
やがて毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。

こうした中で、最大の難関は私の場合は厚生年金に加入していたので、
厚生年金は『報酬比例部分』と『定額部分』で成り立っている、と知った時である。
たとえば厚生年金の総計を年間で230万円と仮定した場合は、『報酬比例部分』は150万円(65%)、
そして『定額部分』は80万円(35%)となっていた。
この『定額部分』の支給開始時期は、生まれた世代によって差異がある、と学んだりした。
◎1941(昭和16)年4月1日以前の方は・・・60歳から支給。
◎1941(昭和16)年4月2日~1943(昭和18)年4月1日の方は・・・61歳から支給。
◎1943(昭和18)年4月2日~1945(昭和20)年4月1日の方は・・・62歳から支給。
◎1945(昭和20)年4月2日~1947(昭和22)年4月1日の方は・・・63歳から支給。
◎1947(昭和22)年4月2日~1949(昭和24)年4月1日の方は・・・64歳から支給。
◎1949(昭和24)年4月2日~1953(昭和28)年4月1日の方は・・・
『定額部分』は、『基礎年金』に一本化されて65歳から支給。
このように明記されていたので、私は1944年(昭和19年)9月の生まれであるので、
『定額部分』の支給開始時期は、満62歳からと知った。
私は厚生年金に関し、友人たちと『報酬比例部分』は『定額部分』などの合算で、満額と称しているが、
悩ましいのは私の前後だけでも差異があることであった。
私たちの世代は、社会人になった頃の1970年〈昭和45年〉の当時は定年退職時は55歳が多く、
まもなく60歳に改定されてきたので、それぞれ人生設計の基幹としてきた。
そして私は、遅ればせながら、1994年(平成6年)の年金改正に於いて、
60歳代前半の老齢厚生年金の『定額部分』の支給開始年齢を、
2013年(平成25年)までに段階的に60歳から65歳に引き上げがされた、と学んだりした。
その後、2000年(平成12年)の年金改正では、
老齢厚生年金の『報酬比例部分』を2025年(平成37年)までに、段階的に60歳から65歳に引き上げ、と知ったりした。
このような関係で私の場合は、定年退職後の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からであった。
この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となる、と遅ればせながら知った。

そして1941年(昭和16年)4月1日以前の先輩たちは、
もとより『報酬比例部分』、そして『定額部分』の支給開始時は、定年退職の60歳と同時に頂けるので、
いいよなぁ、と私は溜息をつきながら感じたりした。
しかし私の後輩の団塊世代の人たちは、私より『定額部分』の支給開始が遅れて、
この間の生活も大変だよなぁ、と思いを新たにさせられた。
この当時、民間会社の大手、中小業にしても、定年退職時は満60歳が多く、
その後に、単純に現役の処遇で継続できる人は、殆ど皆無である。
こうした現実の中で、定年後の年金満額までの期間をどのように生活するのか、
何よりの最優先の命題、と私は実感させられた。

こうした間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風となる中、
私はサンドイッチのような板ばさみの心情となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このように私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であり、金融資産も程ほどとなり、
何かと多くの方の半生史は自慢史が多い中、つたない私はもとより対象外となっている。

私の定年退職は10月20日であったが、10月初旬に家内の父は病死し、葬儀を終えてまもなく、
退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、慌ただしい日々を過ごしたりした。
こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。
そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方たちの真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したりした。
そして家内の父の死去に伴い、定年退職記念旅行と失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、長らく住んでいる。
そして生家も近く、住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
付近の住宅の敷地より、少し広いかしらと思ったりしている。
こうした中で私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。
世の中の多くの人生の3大支出は、「教育資金」、「住宅資金」、「老後資金」と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。

私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
この間、定年退職の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からの満額となるまで、
この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となり、
予測した以上に赤字となり、小心者は何かと気弱になったりした。
やがて満62歳から満額の厚生年金となり、予定通り年金生活は安定飛行となり、
私たち夫婦は、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としているが、
今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合って、互いに微苦笑したりしている。
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