私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
朝の6時過ぎ洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷した・・。
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、黙祷をしてきた。
そして本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日の朝、都心の皇居に向かい黙祷した・・。
こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ47年黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。
そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。
私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。
いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。
私はここ8年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌に、思いを重ねたりしている。
国のため いのちささげし
人々の ことを思えば 胸せまりくる
昭和天皇
戦なき 世を歩みきて
思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
平成天皇
私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。
この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。
平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。
そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17年)9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。
午前11時50分、私は居間にあるテレビの前で立った・・。
もとより本日は69回目の『終戦記念日』を迎え、政府主催の『全国戦没者追悼式』が、
NHKテレビ放送でも実況中継されるので、視聴した・・。
式の当初、天皇、皇后両陛下をお迎えしている時、私もソファの椅子から立ち上がり、
背筋を正して視聴していた・・。
そして国歌を斉唱になると、かぼそい声ながらも私は唄いだした。
この後、安倍首相の式辞を拝聴した・・。
そして私は、首相として相応しい式辞のお言葉を発露された、と感じたりした。
この後、正午の時報に合わせて黙祷の時、私もテレビの前で、襟を正して黙祷をしたりした。
そして天皇陛下のお言葉を拝聴した後、
戦争の犠牲となった少なくとも約310万人(軍人・軍属約230万人、民間人約80万人)に対して、
改めて無力ながらご冥福を祈ったりした。
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朝の6時過ぎ洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷した・・。
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、黙祷をしてきた。
そして本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日の朝、都心の皇居に向かい黙祷した・・。
こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ47年黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。
そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。
私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。
いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。
私はここ8年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌に、思いを重ねたりしている。
国のため いのちささげし
人々の ことを思えば 胸せまりくる
昭和天皇
戦なき 世を歩みきて
思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
平成天皇
私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。
この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。
平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。
そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17年)9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。
午前11時50分、私は居間にあるテレビの前で立った・・。
もとより本日は69回目の『終戦記念日』を迎え、政府主催の『全国戦没者追悼式』が、
NHKテレビ放送でも実況中継されるので、視聴した・・。
式の当初、天皇、皇后両陛下をお迎えしている時、私もソファの椅子から立ち上がり、
背筋を正して視聴していた・・。
そして国歌を斉唱になると、かぼそい声ながらも私は唄いだした。
この後、安倍首相の式辞を拝聴した・・。
そして私は、首相として相応しい式辞のお言葉を発露された、と感じたりした。
この後、正午の時報に合わせて黙祷の時、私もテレビの前で、襟を正して黙祷をしたりした。
そして天皇陛下のお言葉を拝聴した後、
戦争の犠牲となった少なくとも約310万人(軍人・軍属約230万人、民間人約80万人)に対して、
改めて無力ながらご冥福を祈ったりした。
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