私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む70歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、いつものように平素の買い物専任者の私は、最寄りのスーパーに行った。
そして家内から依頼された品を探している中、何かしら華やいだ桃の花が飾られて、
はまぐりと菜の花が入った『ひなまつり 五目ちらし』、穴子の入り『ひなまつり 五目ちらし』などがあり、
この片隅には『いちごのショートケーキ』、いちごの『あまおう』、『とちおとめ』などもあったりした・・。
そして齢ばかり重ねた私でも、『ひな祭』の日だった、遅ればせながら気付き、微苦笑したりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
もとより孫娘もいないが、日本の女の子を全国的に祝う日である、と少しボケた私でも認識している。
やがて私は、家内も女性の身なので、私は勝手に少し高価なひなあられセット、
プリンの代わりに桜餅、草餅などを買い求めたりした。
そして帰宅後、小庭に咲いている白梅を眺めたりした。
やがて遠い昔の65年前の頃、私の生まれた実家の『ひな祭り』の情景が甦(よみがえ)ってきた・・。
私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
やがて私の後に妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/7e/f1931d6faee46d17e64933092fce5c0e.jpg)
早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が宅地の隅にある蔵から出してきて、母や未婚の叔母に手渡していた。
10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。
ひし餅は、父が餅米を精米所に持ち込んだ後、
やがて父が杵(きね)で臼(うす)の中にある蒸されたもち米を搗(つい)たりした。
そして何故かしら菱形にして、三色にしていた。
後年の60歳になった私は、初期の菱餅は草色だったが、江戸末期になって、真ん中の一枚が白くなり、
更に明治時代になってから、上の一枚に小豆(アズキ)で色をつけて、
今のような桃色に仕上げるようになった。
そして一枚目の紅は桃の花、二枚目の白は雪を、三枚目の緑は若草を表わす、と学んだりした。
桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。
このような情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。
そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。
そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、と眺めたりしていた。
やがて 桃の節句』が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、蔵に仕舞う準備をしていた。
私はせっかく飾ったのだから、せめて桜の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/06/86b23791f52f29f25620707811331419.jpg)
このような思いを抱いた後、桜の咲いた頃、私は地元の小学校に入学した。
やがて私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。
そして確か2年後には、『桃の節句』が到来しても、
私の生家は、ひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりする余裕もなくなり、
これ以降、私は見かけることはなくなった。
このようなことを私はぼんやりと、思いだしたりし、
齢を重ねた私は、65年前の頃に、そうだったよなぁ、と微苦笑したりした。
我が家は無念ながら孫娘もいなく、今としては『ひな祭り』は、せんなきこととなった。
こうした中で、小庭にある紅梅(コウバイ)が、遅ればせながら、数日前に咲き始めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/4b/ae78e0cf1c1fc027083cbbf8cb5702d5.jpg)
こうした少し華やかな朱紅色の色あいをしている紅梅を見ながら、
桃の木のない我が家としては、せめて桃の花の代わりに紅梅の花を眺めたりしている。
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本日の午前中のひととき、いつものように平素の買い物専任者の私は、最寄りのスーパーに行った。
そして家内から依頼された品を探している中、何かしら華やいだ桃の花が飾られて、
はまぐりと菜の花が入った『ひなまつり 五目ちらし』、穴子の入り『ひなまつり 五目ちらし』などがあり、
この片隅には『いちごのショートケーキ』、いちごの『あまおう』、『とちおとめ』などもあったりした・・。
そして齢ばかり重ねた私でも、『ひな祭』の日だった、遅ればせながら気付き、微苦笑したりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
もとより孫娘もいないが、日本の女の子を全国的に祝う日である、と少しボケた私でも認識している。
やがて私は、家内も女性の身なので、私は勝手に少し高価なひなあられセット、
プリンの代わりに桜餅、草餅などを買い求めたりした。
そして帰宅後、小庭に咲いている白梅を眺めたりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/15/f4f756b04a6e7fb5dfd1c2b6295ca07d.jpg)
やがて遠い昔の65年前の頃、私の生まれた実家の『ひな祭り』の情景が甦(よみがえ)ってきた・・。
私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
やがて私の後に妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/7e/f1931d6faee46d17e64933092fce5c0e.jpg)
早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が宅地の隅にある蔵から出してきて、母や未婚の叔母に手渡していた。
10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。
ひし餅は、父が餅米を精米所に持ち込んだ後、
やがて父が杵(きね)で臼(うす)の中にある蒸されたもち米を搗(つい)たりした。
そして何故かしら菱形にして、三色にしていた。
後年の60歳になった私は、初期の菱餅は草色だったが、江戸末期になって、真ん中の一枚が白くなり、
更に明治時代になってから、上の一枚に小豆(アズキ)で色をつけて、
今のような桃色に仕上げるようになった。
そして一枚目の紅は桃の花、二枚目の白は雪を、三枚目の緑は若草を表わす、と学んだりした。
桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。
このような情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。
そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。
そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、と眺めたりしていた。
やがて 桃の節句』が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、蔵に仕舞う準備をしていた。
私はせっかく飾ったのだから、せめて桜の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/06/86b23791f52f29f25620707811331419.jpg)
このような思いを抱いた後、桜の咲いた頃、私は地元の小学校に入学した。
やがて私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。
そして確か2年後には、『桃の節句』が到来しても、
私の生家は、ひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりする余裕もなくなり、
これ以降、私は見かけることはなくなった。
このようなことを私はぼんやりと、思いだしたりし、
齢を重ねた私は、65年前の頃に、そうだったよなぁ、と微苦笑したりした。
我が家は無念ながら孫娘もいなく、今としては『ひな祭り』は、せんなきこととなった。
こうした中で、小庭にある紅梅(コウバイ)が、遅ればせながら、数日前に咲き始めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/4b/ae78e0cf1c1fc027083cbbf8cb5702d5.jpg)
こうした少し華やかな朱紅色の色あいをしている紅梅を見ながら、
桃の木のない我が家としては、せめて桃の花の代わりに紅梅の花を眺めたりしている。
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