過ぎし5月29日、橋本忍(はしもと・しのぶ)さんは、
ご自宅で100歳を迎え、弟子で当たる監督の山田洋次さん、脚本家の中島丈博さん、
そして監督の亡き黒澤明さんを共に支えた野上照代さんが駆けつけ、
数字の「100」の形をしたロウソクを勢いよく吹き消し、誕生祝いなされた、と私はニュースで読んだりした。
今朝、私は6時過ぎのNHKのニュースを視聴する中、
脚本家・橋本忍さんが死去されたことを知り、
とうとうお亡くなりになされてしまった、と私は思ったりした後、深く哀悼を重ねた・・。
私は都心の郊外の調布市に雑木が多い小庭の中で、古惚けた戸建に住んでいる。
そして近くに生家があり、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。
こうした中、この頃に生家にある本と云えば、農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。
やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、私は少年心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
こうした中で、私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、
独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら授業は楽しく感じて、
読書の魅力にも取りつかれたりした。
こうした中、新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。
こうした中で、脚本家の橋本忍さんの『切腹』を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
やがて専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、数多くの作品を映画館で鑑賞しながら、シナリオの習作をした。
その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。
この当時の私は、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。
或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。
やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、劣等感を秘めて私の方からは連絡も避けていた。
そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。
こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。
そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。
まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
こうした中、出向先は遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
私の家内は5歳年下で、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に、古ぼけた一軒屋に住んでいる。
こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。
このような拙(つたな)い人生航路を歩んだ私でも、
長らく脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんを敬愛してきたので、今回ご御逝去知り、
深く哀悼を重ねてたりした・・。
この後、私はネットでこのニュースを検索したら、朝日新聞社の基幹ネットの【朝日新聞デジタル】に於いて、
『 脚本家の橋本忍さん死去 「七人の侍」黒澤8作品に参加 』と題して、
編集委員の石飛徳樹さんが迅速に綴られ、7月20日午前3時に配信され、
的確に明記されて、これだったら橋本忍さんの偉業が、或る程度は読者に伝わる、と思ったりした。
私としては、多くの御方に知って欲しく、あえて無断ながら転載させて頂く。
《・・「羅生門」(1950年)、「七人の侍」(1954年)、「日本沈没」、「砂の器」など、
映画史に残る名作、ヒット作を数多く手がけた脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんが
19日午前9時26分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。100歳だった。
葬儀は近親者のみで営む。喪主は長女綾(あや)さん。
兵庫県生まれ。会社勤めをしながら伊丹万作監督に学ぶ。
1950年、芥川龍之介の小説を脚色した「羅生門」が黒澤明監督の手で映画化され、脚本家デビュー。
この作品がベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を取り、注目を集めた。
黒澤監督の脚本チームの一員となり、「生きる」(1952年)、「七人の侍」(1954年)、
「蜘蛛巣城(くものすじょう)」(1957年)、「隠し砦での三悪人」(1958年)など計8本の黒澤作品に参加した。
骨太のエンターテインメントを得意とし、「張込み」(1958年)、「黒い画集 あるサラリーマンの証言」(1960年)、
「ゼロの焦点」(1961年)など松本清張の社会派推理小説の脚色は十八番だった。
映画製作会社の橋本プロダクションを設立し、
製作者としての第1作は清張の長編を自ら脚色した「砂の器」(1974年、野村芳太郎監督)、
続く第2作「八甲田山」(1977年、森谷司郎監督)とともに、当時の大作ブームの流れに乗って大ヒットを記録した。
テレビでも、戦時下の庶民の苦しみを描いたドラマ「私は貝になりたい」(1959年)が
芸術祭賞を受け、自身の脚本・監督で映画化もされた。
他の脚本の代表作に、1963年のカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得した小林正樹監督の「切腹」(1962年)、
山本薩夫監督の「白い巨塔」(1966年)、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」(1967年)、
森谷監督の「日本沈没」(1973年)など。
著書に黒澤監督との仕事を中心につづった自伝「複眼の映像 私と黒澤明」(2006年、文藝春秋)がある。
注)記事の原文にあえて改行を多くし、年代表示を補記した。
この記事を読み終わった後、八海事件の裁判の係争中に、冤罪(えんざい)青年を救う為、
橋本忍さんは自ら歩いて検証して脚本した『真昼の暗黒』(1956年、今井 正・監督)は、
この年のキネマ旬報ベスト第一位も、記載されていないよなぁ・・と微苦笑したりした。
或いは三船敏郎さんが三船プロダクションを設立した中で、
映画の出来栄えを左右する基本は脚本だ、と認識していたので、橋本忍さんに脚本を依頼した
『上意討ち 拝領妻始末』(1967年、小林正樹・監督)は、
この年のキネマ旬報ベスト第一位も、この記事に記載されていない。
私は橋本忍さんの底知れぬ才能に再確認をされられたひとつに、名作のひとつ『砂の器』がある。
この原作は松本清張さんであるが、脚本は、原作と余りにもかけ離れている。
たとえば映画で圧倒的に魅了される遍路シーンは、原作では数行となったりしている。
過ぎし2006年12月3日、私は読売新聞に於いて、特集連載の【時代の証言者】に於いて、
この1週間、《喜劇監督 山田洋次》が連載されていた。
私は山田洋次さんの監督として作品は、余り観ていない。
『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』、『霧の旗』、『家族』、『幸福の黄色いハンカチ』、
『遥かなる山の呼び声』、『キネマの天地』、『たそがれ清兵衛』等であり、
『男はつらいよ・・』のシリーズは苦手なので、数本観たが、忘れてしまった。
このように山田監督の作品に関しては、評価は出来ない立場であるが、
脚本家としては優秀な作品を観ているので、この連載は私の興味となっている。
それにしても、この読売新聞の担当記者、山田洋次の前に喜劇監督と称されているが、
不勉強も甚(はなは)だしい、と思っている。
昨日のこの連載に於いて、山田洋次さんが『砂の器』の脚本、映画までの完成を語っていた。
私は何かしらで読んだり、観たりしているが、山田洋次さんの証言は創作の秘密を明言されているので、
この人の高潔さを感じたりした。
新聞記事を無断であるが、あえて転記させて頂く。
《・・『ゼロの焦点』に続いて、1962年(昭和37年)頃、
野村芳太郎さんが監督する『砂の器』の脚本作りに、再び橋本忍さんと取り組みました。
公開は1974年ですが、脚本は10年以上前に出来ていたんです。
松本清張の原作は、話が入り組み過ぎていて、とても映画になりそうもない。
『これは無理ですよ』と言うと、
橋本さんは、『その通りなんだ』とにやにや笑い、
『でも、ひとつだけ方法がある』と言って本を開きました。
それには、捜査会議で刑事がハンセン病の男と息子の足取りを語る場面に、
赤鉛筆で傍線が引いてありました。
『追われるように古里を出、島根県の亀嵩(かめだけ)に現れる。
その間どこに回ったかは、この親子にしか分からない。
この分からない、というところを絵にするんだ』。
物乞いをしてこの国のあちこちを回り、どんな目にあったか。
どんなにつらかったか。
それをクライマックスにして物語を作っていくということです。
捜査会議が再開されたのが、犯人の新曲発表コンサートの晴れの日。
刑事が話し始めたところで音楽が始まる。
その音楽に乗せて、親子の旅の回想がはさまれる。
『どうだ、良いだろう』と橋本さんは自分の発想にとても興奮し、
すぐに旅館を押えてくれ、と言いました。
夜を日に継いで、仕事を進めたかったんですね。
その時は、横15センチ、縦10センチくらいのカードに、場面を書いていました。
いらないものは捨て、必要なら挿入する。
最近カードで整理する、というのははやりましたが、
橋本さんは40年以上前に実践していた。
ものすごい勢いで橋本さんがカードに書き込み、 それを僕が原稿用紙に写す。
10日か2週間くらいで、完成しました。
親子があちこち行く場面は、僕が考えました。
村の子供にいじめられるとか、
小学校の校庭をじっと見つめているとか、
橋の下で親子で楽しそうに食事しているとか。
でも、真冬の雪の中は書いていません。
あの場面は野村さん(注・野村芳太郎監督)が加えたのです。
物乞いの人達は、寒い時に北には行きません。
でも野村さんはあえて、親子に酷寒の青森県・竜飛岬を歩かせた。
それが映像的な緊張感、過酷さを描き出し、あの映画の象徴となっています。
それにしても、企画が中断しても10年以上あきらめず、
ついに実現させた野村さんの執念には頭が下がりますね。・・》
注)新聞記事の原文より、あえて改行を多くした。
この作品に関しては、私は脚本が完成されてから、作品の完成までは、
色々と映画専門雑誌、新聞記事などで読んできたが、
松竹が暗い映画だと短絡的に判断し、中々製作の許可がならなかった、と読んだりしていた。
監督の野村芳太郎さんは、作家の松本清張の原作の映画化を数多くする中、
『霧プロダクション』を設立し、製作、監督を数々を行った御方である。
そして『砂の器』は、橋本忍さんは松竹から長らく製作の許可が出ないのに、
やむなく野村芳太郎さんに資金の協力も得ながら、ご自分のプロダクションを設立し、
資金を投じて、製作も兼ねている。
やがてこの映画が完成され、原作者の松本清張さんが鑑賞された後、
『小説より、この映画の方がはるかに優れている』と私は読んだことがある。
そして私はサラリーマンで奮闘する中、この『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めたのは、
1975(昭和50)年1月過ぎであった。
私は脚本家の橋本忍さん御逝去に伴い、遺(のこ)された数多くの作品を
居間にある映画棚のビデオテープ、DVDをテレビを通して、鑑賞しょうと思ったりしている。
或いは村井淳志・著作の『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書、2005年)、
橋本忍・著作の『複眼の映像 ~ 私と黒澤明 ~』(文藝春秋、2006年 ==>文春文庫、2010年)、
改めて再読しょうと、本棚から引き抜いたりしている。