夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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今年の冬は寒く、ラニーニャ現象で日本列島を寒波直撃の恐れ、77歳の私は学び、溜息を重ねて

2021-10-28 15:22:22 | 喜寿の頃からの思い

先程、ときおり愛読している公式サイトの【 日刊ゲンダイDIGITAL 】を見ている中で、
『 今年の冬は寒いぞ!  ラニーニャ現象で日本列島を寒波直撃の恐れ 』、
と題された見出しを見たりした。

こうした中、私の住む地域は冬の時節に、
5年に一度ぐらい積雪が15センチ前後の積雪となり、
高齢者の私は、シャベルなどで雪かきをするが、
やがて不慣れと体力の衰えた私は、腰などが痛くなって困苦したりしてきた・・。



このような深情のある私は、《・・日本列島を寒波直撃の恐れ・・》、
勘弁して欲しいなぁ・・と思いながら記事を読んだりした。
 
この記事は、【 日刊ゲンダイDIGITAL 】の『ライフ』に於いて、
10月28日に配信され、無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・今年はラニーニャ現象で寒くなりそうだ――と気象庁が、注意を呼びかけている。

25日の会見では「ラニーニャによって、西日本を中心に厳しい寒さになる恐れがある」と警告した。
シベリア高気圧の冷たい空気が、日本列島に流れ込みやすくなるそうだ。

気象予報士原田雅成氏(ウェザーマップ所属)がこう言う。
「沖縄・奄美は、平年並みか気温が低くなると思われます。
同時に山陰から兵庫県北部、奈良、京都、北陸、新潟にかけた日本海側の地域が寒くなりそうです。

昨年の冬、新潟にドカ雪が降って関越道でクルマが立ち往生したのと同じように、
これらの地域に大雪が降る可能性がある。

 

日刊ゲンダイDIGITAL

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

 
今回、《今年の冬は・・日本列島を寒波直撃の恐れ・・》学び、
私は齢を重ねるたびに寒さに弱くなってきたので、困るよなぁ・・と苦笑したりした。

私の住む地域は5年に一度ぐらい雪が15センチ前後積雪となり、
やむなく体力の衰えた私でも、雪かきをして、やがて腰が痛くなって、
困苦したりしてきた。

しかしながら寒い地域に御住いの御方は、除雪はもとより、
特に灯油などが高騰して、暖房費が大変だなぁ・・と思い浮かべたりした。

 
やがて私が住んでいる近くに生家があるが、
私が小学時代の頃は、毎年30センチ前後の積雪を思い馳せたりした・・。


       
 
私は幼年期は、農家の児の三男坊として育ったのであるが、
小学校に入学して1951年(昭和26年)の当時は、
母が陶磁の湯たんぽに熱湯を入れて、古着の布切れを巻いて、
私の寝る布団の中に入れてくれたりした。
 
この当時の農家は、炭を熾(おこ)した火鉢(ひばち)を数箇所の部屋に置き、
台所の付近にある食事処は、囲炉裏のある板の間であったので、それぞれ座布団を敷いて、
それぞれのお膳を前に頂いたりした。
 
確かに火の近くは暖かかったのであるが、全般としては寒い部屋であった。 
 
私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
       


1951年〈昭和26年〉の4月、私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の近くにる小学校までの通いなれた通学路は、一キロぐらいで、
学童の身としては15分程度の村道を歩いていた。

この時の村道も、雪かきもされていないのが殆どであったので、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれて、少し吹雪いていたが一直線に畑の上を歩いて登校した。

この当時の小学校は、木造の二階建てであり、
教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があったりした。

こうした中、この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、
薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、
帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。

        

その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
          
 
このような遠い私の幼年期のことも思い馳せ、
昔は寒かったよねぇ・・、と微苦笑したりしている。

そしてこの当時より、やがて石油、ガス、電気などのストーブ、ファン・ヒーター、
何よりもエアコンにより部屋全体が暖められることに、
私は甘受をしたりしている。
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