先程、ヤフージャパンが配信しているニュースの中で、
『 【追悼】73歳で亡くなった「八代亜紀」さんの「名曲」はなぜ心に残り続けるのか?
《五木ひろしとの「五八戦争」》
《日本中がマネした「雨々ふれふれ」》』、
と題された見出しを見たりした。
《・・ 演歌歌手の八代亜紀さんが、2023年12月30日に亡くなった。
1971年にデビュー、『舟唄』、『おんな港町』、『愛の終着駅』などヒット曲は多数あるが、
毎年梅雨が来るたびに『雨の慕情』を思い出す人も多いだろう。
日本レコード大賞を受賞したこの曲は、なぜ人々の心に残り続けるのか。
週刊現代で行われた鼎談を特別公開する。

☆マネするだけで、心躍る
小西良太郎:
『雨の慕情』は、阿久悠・浜圭介コンビが初めて、
「八代亜紀のために作った曲」なんですよ。
実は前年にヒットした『舟唄』は、
もともと浜ちゃんが「美空ひばりさんが歌ってくれたら嬉しい」と作った曲を、
僕が「いつか機会があれば」と預かっていたものでした。
一方、『雨の慕情』は作詞・作曲と制作の狙いが一体となって、
八代にあて込んだストレートなヒット曲だと私は思っています。
八代さんも『舟唄』を最初に歌入れするときは、
初めての作家コンビだったし、慣れない男唄だから不安がっていた。
でも、『雨の慕情』のときは、『舟唄』がヒットしたあとだから、
「またこのコンビの曲を歌える!」と、それは嬉しそうでしたね。
森田正光:
その明るい気持ちが、「雨々ふれふれ」のリズムに合わせて、
掌を空に向け、手を上げ下げするあの楽しい振り付けを生んだのかもしれませんね。
当時は『ザ・ベストテン』などの歌番組が、いまと比べ物にならないほど影響力がありました。
そこで全国へ向けて披露したことから、ブラウン管の向こうの子供たちが真似して、
世代を超えたヒットにつながっていきました。
「憎い 恋しい」「きらい 逢いたい」といった大人の心情は分からなくても、
振り付けをマネするだけで楽しかった。
日本人があんなに楽しそうに雨の歌を歌うのは、童謡の『あめふり』以来だったと思います。
浜圭介:
あれは八代さんが、自分で思いついた振り付けなんですよね。
確かに、子供たちが真似をする様子を見て、
「歌が社会現象になるとはこういうことなのか」と実感しました。
---- 浜圭介(はま・けいすけ)/
'46年、旧満州生まれ。ロック歌手から作曲家に転身、『雨の慕情』、奥村チヨ『終着駅』、北原ミレイ『石狩挽歌』等を作曲
-----小西良太郎(こにし・りょうたろう)/
'36年、東京都生まれ。スポーツニッポン新聞社の音楽担当記者時代から、
音楽プロデューサー、評論家として活躍
----- 森田正光(もりた・まさみつ)/
'50年、愛知県生まれ。日本気象協会を経て、フリーお天気キャスターに。
民間気象会社ウェザーマップの創業者兼会長
☆五木ひろしと繰り広げた「五八戦争」
小西良太郎:
これは笑い話なんだけれど、当時スポニチで、阿久悠さんには
高校球児をテーマにした『甲子園の詩』という連載を書いてもらっていたんですよ。
灼熱の夏に白球を追う青春の讃歌を書いているのに、
一方で「雨々ふれふれ」で喜んでいいのかよ、とよく笑って話していました。
森田正光:
僕たち気象予報士も、勤務中の深夜の休憩時間に、
ギターを弾きながら「雨々ふれふれ」なんて歌っている連中がいました。
気象予報士は、なにより予報が外れることを嫌います。
もちろん大雨で水害が起こるようでは困りますが、
雨の予報をした後は「雨々ふれふれ、もっとふれ」と歌いたくなるものです(笑)。
小西良太郎:
森田さんのお話からも思いますが、
当時、「カラオケの時代」が始まっていたのは大きかった。
『舟唄』は、いまでこそスナックで歌われるなどカラオケでも人気曲だけど、
発売当時は、難しい曲だからカラオケでは歌われなくて、なかなかヒットしなかった面がある。
でも、『雨の慕情』は振りもあって、盛り上がるでしょう。
それもヒットにつながった。
森田正光:
ええ、僕の兄のカラオケの十八番でもあります(笑)。
浜圭介:
明快な曲にしようとは思っていたけれど、正直カラオケを意識して作ってはいないんですね。
ただ、僕も若い頃からロックを聞いて育って、
同世代の仲間たちは、四畳半フォークやニューミュージックなど、
新しい文化の中で青春を過ごしていた。
そんな多感な青春を生きた人たちは、社会人になってからも、
いままでとは違った感性の歌謡曲を求めている。
そう信じて作ったのが『雨の慕情』でした。
その意味では、僕の個人的なチャレンジと八代さんの新機軸、
さらに「時代の雰囲気」が見事に重なってくれたのだと思います。
森田正光:
2番の「一人で覚えた手料理をなぜか味見がさせたくて」という歌詞も、
生活感のある恋を歌うフォークを通ってきた人間からするとたまらないですね。
そうして子供から大人まで幅広い世代を取り込んだヒット曲で、
八代さんはレコード大賞他、各賞を総なめにしました。
五木ひろしさんとのレコード大賞をめぐる壮絶なデッドヒートは、
「五八戦争」と名付けられ、ものすごく話題になりました。
☆格闘技出身の事務所対決
小西良太郎:
五木の「五」と八代の「八」で「五八戦争」と語呂もよかった。
どちらも叩き上げの実力派歌手で、八代の『雨の慕情』に対して、
五木さんは『ふたりの夜明け』という名曲をひっさげていた。
当時は、レコ大の各賞を取ると、コンサートなどの興行の規模や収入が桁違いに増えるので、
タレント以上に事務所が本気でした。
八代が所属していた六本木オフィスは、
もともとキックボクシングから芸能界へと事業拡大した事務所でした。
一方、五木さんの野口プロモーションは、
そもそも代表の野口修さんがキックボクシングのプロモーターです。
格闘技出身の新興勢力のぶつかりあいとしても、世間から騒がれました。
浜圭介:
『雨の慕情』の後、「哀憐三部作」として、僕と阿久さんのコンビは
八代さんには、もう一曲『港町絶唱』という曲を作りましたが・・・。
小西良太郎:
あれもいい曲でしたが、前作の陰に隠れてしまった。
もともとあの曲は、カンカン照りになって『雨の慕情』が売れなかった時のための予備で
用意した曲でしたから。
浜圭介:
ええ。『舟唄』と『雨の慕情』では、新しいことをやって、出し尽くしたんだと思います。
『雨の慕情』には、レコ大を取りにいった曲という側面もありますが、
それ以上に「これまでの音楽を変えたい」という純粋な思いがあったのです。
森田正光:
だからこそ、今でも雨の季節になると、口ずさんでしまう名曲が生まれたのですね。
---------- 『雨の慕情』/'80年4月25日発売、八代亜紀の30枚目のシングル。
阿久悠作詞、浜圭介作曲で『舟唄』『港町絶唱』と合わせて哀憐三部作として愛された。
日本レコード大賞を受賞した。
---------- 週刊現代2022年6月11日号より・・・ 》
注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
今回、八代亜紀さんの『雨の慕情』の背景の秘話・・多々教示させられたりした。
私は演歌は苦手であるが、前年の1979年
『舟唄』は日本レコード大賞を受賞に相応しい名曲、と思ったりした。
しかしながらジュディ・オングさんの『
唄う時に、両手を広げると裾から手首まで袖が、扇状に広がる純白のドレスに、
敗退してしまった、と思いがあったことを思い出したりした・・。
やがて翌年の
と私は思ったりした。

今回、
過ぎし2013年3月27日にニューヨークの名門ジャズクラブ・バードランドでライブを開催され、
長年、憧憬されてきた
良かったですねぇ・・と私は思い深めたりした。
改めて御